水戸中央教会 牧師室

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zoom RSS 2017年2月12日 マタイ福音書5章17〜20 節 「キリストの教え」

<<   作成日時 : 2017/02/15 17:33   >>

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「沈黙」を見てきました。いい映画ですね。海外の諸教会からの励ましと私は受け取りました。そして、励まされました。本当に忠実に信仰を守って死んでいった人々がいること、素朴で勇敢な最下層にいる百姓、そして、井上さまをはじめとする武士たちの残虐性と陰険さが明瞭なコントラストに置かれていました。「武士道」なんていうのは、そう大したことないということですね。時代考証などは完璧で、日本側の失笑を買わないように非常に忠実に再現していると思います。ただ、全体の空気が九州などの雰囲気とは違いますね。霧と雨が多く、暗いイメージを漂わせています。しかし、それは、非常に神道的なあやしき精神風土を象徴させているとも考えられます。沼地で苦闘している私たち日本のクリスチャンにに対するエールであり、「私たちはあなたたちの苦難を決して忘れはしない」という声を私は画面から聞き取りました。そして、いつの日か、無残に殺されていった人々の死を無意味なものにしないために今の私の使命があると思います。また特に、このキリスト教迫害の映像化は、一般の日本人に対して、日本に信教の自由がなかったこと。キリスト教を信じることが信教の自由なのだということを明確化させる効果を狙ったものと考えられます。現代のこのキリスト教迫害の歴史を知らぬ顔をしている多くの日本人にとっては、「信教の自由」は、キリスト教を信じない自由だからです。暗い映画だという人もいました。私はファイトが湧いてきたのですれどね。

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。」

 このイエス様の言葉は、私たちが伝統を重んじるべきだとか、イエス様は人間的な伝統を重んじていらっしゃるというように理解すべきではありません。律法や預言者は、それが真理に基づいていますから、権威があるのです。イエス様は、その律法や預言者の真理を否定するのではなく、律法や預言者が基づいている真理そのものだからです。
ここで言われている「律法や預言者」というのは、今の私たちが持っている聖書の中の旧約聖書の部分のことです。ここには、動物を犠牲として捧げたりするなど、今の教会では行われていないたくさんのことが記載されています。大きなところでは、十戒の中の「安息日を覚えてこれを聖とせよ」というのがあります。「安息日」というのは、週の終わりの日である土曜日です。しかし、キリスト教会では、イエス・キリストの復活を記念する日曜日をそれに当てています。これは、律法を軽んじる行為ではないのでしょうか。
 もちろん、そうではありません。キリスト教会は、基本的に、このイエス様の言葉そのものの権威を認めることによって、律法と預言者の言葉の一点一画に至るまで、重んじているという理解をしてきたのです。つまり、イエス・キリストに従うことによって、律法のどんな小さな掟をも守っているということです。
 動物の犠牲に関しては、イエス・キリストご自身が、わたしたちの罪のための犠牲として十字架で死んで下さったので、もはや動物の犠牲を捧げる必要はなくなったのです。そして、イエス・キリストによる罪の赦しを信じているのに、動物の犠牲を捧げることは、それはキリストの犠牲を否定することになりますから致しません。
 
 キリスト教というのは、その真理性ということが、他の宗教よりも強く問われます。聖書に記録されている奇跡などの類には、「どう考えても、これは伝説ではないのか?」と、思わせるものがあります。預言者が祈って、太陽の影が戻ったとか、火の中に投げ込まれてもやけどひとつなく出てきたダニエルとか色々とあります。しかし、仏教や神道や他の宗教にはもっと荒唐無稽な伝承があります。弘法大師が杖をさしたら湧き出てきた泉の類は日本全国にあるのではないかと思います。古事記にも太陽が戻るような話があります。お寺や神社の縁起などは、ほとんどが何の歴史的根拠もないでっち上げに近いと思うのですが、だからといって神道の正当性や天皇家の権威を疑うことは致しません。あるいは、その歴史的根拠を疑う姿勢が全くと言っていいほどありません。
 ところが、聖書に関しては、それを信じている人々のあいだで、それが本当に起こったことなのかどうかが問われます。それは、わたしたちの信じるキリスト教が、その真理性の上に成り立っているということを意味しているのです。そして、私たち自身が真理を重んじるという姿勢を聖書によって養われているのです。

 キリスト教の真理性とは、つまるところイエス・キリストの復活にあります。キリスト教会の成立は、十字架にかけられ確実に死んだ一人の人間イエスが、三日目に復活したという信じられない、しかも伝説とは考えられない出来事にあります。
 その他の聖書の伝説ではないかと思わせられるような箇所の正当性は、イエス・キリストの復活の出来事によって保証されているのです。その意味でも、確かにイエス様は律法と預言者とを成就し、完成させる方です。
 キリスト教というのは、恐ろしいほどの強力な感染力をもった非常に強力な宗教です。これに匹敵するものは他にありません。あのローマの大迫害を乗り越えて、ついにはローマ帝国が、キリスト教会によって維持されるようになってしまいました。徳川幕府は、徹底的にキリスト教を迫害しました。それは現代に至るキリスト教会の歴史において、特筆すべきほどの大迫害でした。しかし、イエス・キリストの福音は、徳川幕府の崩壊後、再び日本の地を踏んだのです。
 統一教会やオウム真理教が、その反社会的な行為によって一時、有名になりますが、だからといって、これらの偽宗教は強力なようでいて、数百年も続くようなことはないのは明らかです。ほかにも数え切れない偽宗教がありますが、それらの存在は、いかに私たち自身がキリスト教の正しさを認識していないかということの結果です。そして、エセ宗教の非道さを通して、いかにイエス・キリストが本物であるかが証明されています。

 イエス・キリストのゆえに、私たちはかつて、イスラエル民族に語りかけられた天地の創り主である神を受け入れざるを得ないのです。もしイエス・キリストが、この世に現れなかったならば、天地を創造されたという神は、単にユダヤ教の言うところの神様なのだということにとどまっていたでしょう。そして、「私たちには、わたしたちの民族の神々がある」とうそぶいていられたことでしょう。

 しかし、イエス・キリストの出現が、そのように私たちをうそぶくことができないようにしてしまったのです。なぜならば、主イエスは復活されたからです。復活した教祖はいないからです。教祖が死んだ人を生き返らせたというような話はあります。しかし、その教祖そのものが復活したというのは、イエス・キリストただ一人です。そして、ただ幽霊か化け物のように殺しても殺しても生き返ってくるのではありません。主イエス・キリストは、恵みと愛に満ちているからです。主を信じ、主の言葉に従って生きるとき、私たちは聖霊によって、確かな平安が与えられるからです。

 イエス・キリストは真実な正しい方であったことは、間違いありません。それは主を証する弟子たちの言葉がまとめられた福音書からも明らかです。そして、自分が正しいと思うとその自分の正義を振り回すわたしたちのようではありませんでした。主はご自分に対する屈辱をも耐え忍ばれました。謙遜と柔和なかたであったからです。

 最近、日本のクリスチャンの数が減少し、しかも高齢化が進んでいると言って、キリスト教会の未来を悲観する声があります。私はそれは、一体なんなのだろうと思うのです。今、日本で、確かにクリスチャンの数は少ないです。しかし、日本ではクリスチャンだからという理由で、罰せられたりはしません。道端でキリスト教の伝道活動をしていても、伝道活動をしているからという理由で逮捕されたりしません。最近、発表されたドイツの教会関係の調査によると、北朝鮮では聖書を所持しているだけで、死刑になる可能性があるということです。中国でも、自由なキリスト教会の活動は認められていません。しかし、そのような状況の中で、政府から認められていない地下教会が爆発的な広がりをみせているということです。
 それは、確かに現代社会においても、福音が困難の中にある人々の心の支えとなっているという事実を言い表しているのではないでしょうか。
 私たちが今、この日本で享受しているキリスト教を信じても罰せられない自由は、大変に貴重なものです。それは、江戸時代に徹底して行われた迫害の数え切れない犠牲者たちの悲願であり、世界中のクリスチャンの祈りが勝ち取ったものです。当時の迫害が凄まじいものであったので、生存者がほとんどなく、その凄まじさが、私たちには分からないほどになっているのです。日本社会では、昔のキリスト教会が行った魔女狩りを引き合いに出してきて、揶揄しますが、日本のクリスチャン狩りは、魔女狩りの比ではありません。私たちはこの恵みを無駄にしてはいけません。日本のキリスト教会の未来は、大きくその門を開かれているのです。横溝先生が、第二次世界大戦後、千葉の方へ行かれたとき、田舎の町の真ん中に、キリシタン禁令の高札があるのを見たそうです。ですから、わたしたちのキリスト教を信じることができる自由というのは、ごく最近のことです。

 憲法記念日というと、キリスト教会では平和運動や靖国神社反対というような活動が目立ちます。しかし、現在の日本国憲法の制定は、本来的にキリスト教会の解放と勝利を告げていることを忘れているように私には思われます。それは私たちにとって勝利の日なのです。
 忘れてはなりません。日本の歴史の中で、現在ほど、キリストの福音に日本の国が門戸を開いたことはないのです。私たちはその福音の勝利の中にいるということを忘れてはなりません。そして、その中で、私たちは教会を再建しようとしていることを忘れてはなりません。
 日本のキリスト教会は、あのカフカの「門」のようです。自分のために準備された門を、自分で逡巡して入ろうとしないのです。
 自由に礼拝に集うことができる。クリスチャンであることが知られても、殺されないのです。福音を伝えても、警察に引っ張られて拷問されることはないのです。
 そして忘れてはいけません。思い出さなければなりません。礼拝に集うことを禁じられ、こっそりとそれでも集まった日本人たちがいたことを、クリスチャンであることを知られ、殺されていった人々を、福音を伝えてむごたらしい拷問の末に死んでいった数限りない人々があったことを、カトリック教会の記録によると、あの江戸時代の迫害は世界最悪、最も苛烈なものであったと言われます。そして、日本における殉教者の数は世界でも指折りだと聞いたことがあります。
 無数の名もない主を信じた兄弟姉妹の死を無駄にしてはならないのです。

 私たち自身を振り返ってみれば、私たちにはそんな大した信仰があるわけではありません。もし、あの迫害時代に、時の政府からも禁じられていたら、私たちは決してイエス・キリストを信じなかったでしょう。おそらく、いや確実に、迫害する側の人間であったでしょう。そう、私たちはクリスチャン殺しの子孫なのです。そのような私たちに、神は賛美歌を歌うことをゆるされているのです。あのわたしたちの先祖によって殺されていった聖徒たちと全く同じ神の子となる恵みを与えられているのです。ですから、私たちが今、ここにあるということ、礼拝に集っているということは、「敵をも愛し、迫害する者のために祈りなさい」という愛と祈りの成就なのです。その愛と祈りは確かな力を持っているということの証明が、私たちなのです。
 「『敵をも愛し、迫害する者のために祈れ』というけれど、そんなことをしている人がどこにいるのか?」と、私たちは問います。しかし、クリスチャン殺しの末裔である私たちが今、ここでイエス・キリストを信じることをゆるされているということ、これこそが、わたしたちこそが、敵をも愛し、迫害する者のために祈っている人々がいたことの現物の証明なのです。

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