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zoom RSS 詩編035篇 聖書を学ぶ会 2017年2月16日

<<   作成日時 : 2017/02/16 18:11  

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1 【ダビデの詩。】主よ、わたしと争う者と争い/わたしと戦う者と戦ってください。 2 大盾と盾を取り/立ち上がってわたしを助けてください。 3 わたしに追い迫る者の前に/槍を構えて立ちふさがってください。どうか、わたしの魂に言ってください/「お前を救おう」と。 4 わたしの命を奪おうとする者は/恥に落とされ、嘲りを受けますように。わたしに災いを謀る者は/辱めを受けて退きますように。 5 風に飛ぶもみ殻となった彼らが/主の使いに追い払われますように。 6 道を暗闇に閉ざされ、足を滑らせる彼らに/主の使いが追い迫りますように。

 ダビデの詩とあります。サウル王に、ダビデは妬まれて追われますが、その時のことと重ねてこの詩を理解することが可能です。ダビデと争う者があります。ダビデは、神の助けを求めています。彼の敵は、ダビデと争い、襲ってくる敵です。ですから、神の大盾と盾によって守って下さい、助けて下さいと神に訴えています。敵は追い迫ってきており、神が立ちふさがることを神に懇願しています。そして、神が、ダビデの魂に「お前を救おう」と言うことをダビデはお願いしています。敵は、ダビデの命を奪おうとしています。その敵が恥に落とされ、嘲られることを祈っています。「風に飛ぶもみ殻」とは詩編第一篇にも出てくる表現です。困難に遭遇しても、神を信じ、忠実に従い続ける者を神は省みてくださり、流れのほとりに植えられた木のように、時が来れば実を結ぶが、悪人は、風に飛ぶもみ殻のように消え去るという信仰的思想がこの詩編35篇においても基礎となっています。敵は主の使いに追い払われます。主の使いが、敵に襲いかかります。

7 彼らは無実なわたしを滅ぼそうと網を張り/わたしの魂を滅ぼそうと落とし穴を掘りました。 8 どうか、思わぬ時に破滅が臨み/彼らが自ら張った網に掛かり/破滅に落ちますように。 9 わたしの魂は主によって喜び躍り/御救いを喜び楽しみます。 10 わたしの骨はことごとく叫びます。「主よ、あなたに並ぶものはありません。貧しい人を強い者から/貧しく乏しい人を搾取する者から/助け出してくださいます。」

 ダビデが神に助けを求めていることには、前提があります。それは、ダビデ自身は、自分が無実であるということです。彼の良心は潔白であるということです。ですから彼は神に助けを求めることができます。主なる神は、ほかに並ぶものはなく、貧しい人を強い者から、貧しく乏しい人を搾取する者から助け出して下さる方です。ここでまず確認することができるのは、貧しく乏しいことは、神様の目になんの恥ずかしいことでも悪いことでもないということです。
 しかし、私たちにとって貧しく乏しいことは、何か引け目を感じたり、悪いことだと思っています。強いことも、神様の目には、だから素晴らしいという訳ではありません。しかし、私たちにとって強いことは、大きな価値です。強く、豊かでありたいと私たちは願っていますが、神は私たちが強く、豊かであることを喜んでいる訳ではありません。無実で苦しめられている人を助けるのが神です。
 そしてまた一つの私たちがなかなか認めることができない事実がこの詩には含まれています。それは、正しいからと言って、苦しまないということはないということです。それどころか、むしろ逆であって、正しくあるということは、苦難を身に引き受けることであり、多くの敵から攻撃をされるのが普通だということです。そしてまた、色々と身に覚えのないことで、責め立てられたり、正しいのに苦しめられたりすることはあるということです。
 なぜならば、この世は唯一真の天と地を創造された神を崇めないからです。人を創造し愛している方を神として認めていないからです。

11 不法の証人が数多く立ち、わたしを追及しますが/わたしの知らないことばかりです。 12 彼らはわたしの善意に悪意をもってこたえます。わたしの魂を滅ぼそうとして、子供を奪いました。 13 彼らが病にかかっていたとき/わたしは粗布をまとって断食し、魂を苦しめ/胸の内に祈りを繰り返し 14 彼らの友、彼らの兄弟となり/母の死を悼む子のように嘆きの衣をまとい/うなだれて行き来したのに 15 わたしが倒れれば彼らは喜び、押し寄せます。わたしに向かって押し寄せ/わたしの知らないことについてわたしを打ち/とめどもなく引き裂きます。

 このように不法の証人が数多くたち、善意に悪意をもって答え、人々が、正しい人を滅ぼそうとする情景は、イエス・キリストの受難を思い起こさせます。主の十字架は、ですから、イエス様が正しく、本当に正しい神の御子であったから起こったのです。神はただしいかたであるからです。つまり、人々から、不当な仕打ちを受け、してもいない罪をなすりつけられても、自分が正しくあり続けることが、善であり、正しいことだからです。もし、相手が不当なことをしてきたから、不当なことをやり返したならば、私たちは、「自分は正しい」ということはできなくなります。ですから、ダビデは、神に裁きを訴えているのです。

16 神を無視する者がわたしを囲んで嘲笑い/わたしに向かって歯をむき出します。 17 主よ、いつまで見ておられるのですか。彼らの謀る破滅から/わたしの魂を取り返してください。多くの若い獅子からわたしの身を救ってください。

 神は正しい者を、邪悪な者たちの攻撃から救い出し、守って下さる方です。ダビデは自分の潔白さとダビデに対して争う者たちの邪悪さを神に訴えています。神が裁いて下さることを懇願しています。ダビデは、神に自分の願いを聞いてもらうために犠牲を捧げたりしていません。神も願いを聞いてやるから、これこれの犠牲を捧げよとは、言っていません。そうではなくて、神は、貧しい者たちを顧みて、貧しい者たちを強い者や富んだ者たちから守って下さる方です。神は正しい裁きをして下さる方です。神を無視する者が悪であり、無実な人を嘲り、陥れようとする人々が悪です。

18 優れた会衆の中であなたに感謝をささげ/偉大な民の中であなたを賛美できますように。

 優れた会衆、偉大な民とは、自分の信じた正義に立ち続けた人々である。彼らは不当に苦しめられても耐え続け、悪を行わず、神に裁きを訴える人々です。そして自分が信じた正義に留まり続けることは意味があり、正しくあり続けようとするところに希望があるということです。

聖書は武力を完全に否定していませんが、むしろ、この世的には弱く、貧しいことは、神の恵みであると言えます。なぜならば、この世的に強く、富んでいれば、私たち人間は自分の力にあぐらをかいて、高慢になり、貧しい人や弱い人を虐げ、搾取するからであり、不当な攻撃を受けたとすれば対抗してやり返すことができるからです。貧しく、力のない者たちは、不当な仕打ちを受けたとしても、貧しく力がないためにやり返すことができないからです。ただ神に訴えて祈るだけです。そして、その祈りは驚くべきことに聞かれてきたというのが聖書に書かれている神の民の歴史です。

 かつて、紀元前13〜14世紀ごろ、今から3300〜3400年前にイスラエルの民はエジプトで奴隷の民として差別され、苦しめられ、絶滅されようとしていました。神は、モーセを起こして、当時の超大国であったエジプトから、イスラエルの民を脱出させました。イスラエルの民はエジプトに対抗できるような武力は持ち合わせませんでした。葦の海の奇跡のように、神が直接、エジプトの軍隊を壊滅させました。エジプトで奴隷であった民を救われた神にダビデは祈っているのです。
 ダビデもまた実際にサウル王に執拗に追跡されますが、その追跡を神の助けによって逃れ、サウル王が、ペリシテ人との戦いで戦死をして、ダビデはイスラエルの民の王となります。こののちイスラエルの民は、神の約束の地で傲慢になり、唯一、真の神を信じる信仰から離れてしまい、堕落してバビロニアに攻め滅ぼされてしまいます。神がイスラエルを罰したのです。バビロンで捕囚として苦難の生活を送る中で、イスラエルは悔い改めます。すると、バビロニアはペルシャ王キュロスによって滅ぼされ、イスラエルの民は解放されるのです。そして、エルサレムへ戻って、神の神殿を再建せよと命じられたのです。

19 敵が不当に喜ぶことがありませんように。無実なわたしを憎む者が/侮りの目で見ることがありませんように。 20 彼らは平和を語ることなく/この地の穏やかな人々を欺こうとしています。 21 わたしに向かえば、大口を開けて嘲笑い/「この目で見た」と言います。

 ダビデ自身の祈りが、私たちの祈りとなるところに、希望と平安があります。私たちは、この詩編の言葉によって、永遠への道を確かに歩んでいることを確認し、何が罠であり、道からそれてしまうことであるかを確認することができるのです。

22 主よ、あなたは御覧になっています。沈黙なさらないでください。わたしの主よ、遠く離れないでください。 23 わたしの神、わたしの主よ、目を覚まし/起き上がり、わたしのために裁きに臨み/わたしに代わって争ってください。 24 主よ、わたしの神よ/あなたの正しさによって裁いてください。敵が喜んで 25 「うまく行った」と心の中で言いませんように。「ひと呑みにした」と言いませんように。 26 苦難の中にいるわたしを嘲笑う者が/共に恥と嘲りを受け/わたしに対して尊大にふるまう者が/恥と辱めを衣としますように。 27 わたしが正しいとされることを望む人々が/喜び歌い、喜び祝い/絶えることなく唱えますように/「主をあがめよ/御自分の僕の平和を望む方を」と。 28 わたしの舌があなたの正しさを歌い/絶えることなくあなたを賛美しますように。

22 主よ、あなたは御覧になっています。沈黙なさらないでください。
 今、「沈黙」という映画が上映されています。かつて遠藤周作が小説として発表したものが映画化されたものです。日本の江戸時代初期に行われたキリシタン迫害を題材としたものです。日本にイエス・キリストを信じた信仰のゆえに厳しい拷問を受け、処刑されていった人々がいたことを伝えています。「沈黙」というテーマ自体は、神がなぜ、善良で信仰深い日本の信徒たちが苦しめられて死んでいく、その悲惨な有様に対して沈黙しているのかというところにあります。ヨーロッパからの宣教師として、日本に潜入した神父は、「お前が信仰を捨てれば、この信徒たちは拷問から解放される」と、脅迫され、踏み絵を踏んで、信仰を捨てるという選択をします。小説では、イエス様ご自身が、神父に「私を踏みなさい」と言って、実は沈黙を破った形で終わっていたと記憶します。私たちは、「ああ無残に死んでいった人々にとって信仰は無意味だったのだ」と考えたり、「神は沈黙したままではないか」と神様を非難したりします。しかし、果たしてそうでしょうか?
 ダビデの場合は、後にサウル王から解放され、ダビデが王となって、神様は沈黙されていなかったという体験をしたと言うことができるかもしれません。しかし、教会の歴史、神の民イスラエルの歴史には、厳しい迫害の中で無残に殺されていった数えきれない人々がいます。ナチス・ドイツのホロコーストは、つい最近のことですし、今もISによって迫害されているクリスチャンがいます。しかし、殉教していったクリスチャンにとって、この詩編35編は大きな慰めを与える詩編です。彼らの思いがここに凝縮されて、見事に表現されています。そして、殉教者たちが、また何らかの信仰や正しいことによって苦難を味わう私たちが、自分自身の思いや考えをつまり自分自身の祈りを、この詩編に見出すとき、私たちは絶望の中で大きな慰めを見出すのです。実は、それが永遠の命の輝きと光を見、その光の中に生かされている自分を見出すのです。
 そして、神が私に対して、具体的に何も語ることなく、沈黙されていたとしても彼はそれを受け入れることができるのです。それはあきらめの信仰ではありません。信仰の明確化であり、信仰の本質を確認することです。なぜならば、聖書に証されている神を正しく信じ、希望を持つことでそれはあるからです。私たちはエジプトで奴隷として苦しめられた民を救い出された神を信じています。ということは、そのエジプトで苦しめられる中で、たくさんの無実であるにも関わらず殺されていった人々がいるということです。エジプトの王ファラオは、増え広がる神の民を恐れて、ヘブライ人の生まれてくる男の子を殺すことを命じました。その命令は、最初、助産師たちに出されましたが、彼らは王の命令を知恵をもって回避しました。それでファラオは、エジプト全土にその命令を発します。ですから、この王の命令によって生まれて間もなく殺された男の赤ん坊がいたわけです。また強制労働で死んでいった人々もいたでしょう。神の民が、ファラオの迫害の過酷さに叫びの声を神に向かってあげますが、それは、すぐに聞かれたわけではありません。その間に殺されてしまい帰らぬ人となってしまった人々は大勢いたはずです。しかし、神の民の祈りは聞かれ、神の民は救われました。
 ですから、私たちの信仰そのものが、一見、無意味に殺されていった人々の存在を前提としているのです。そして、民の苦しみをご覧になって、救いの御業を行われた神ご自身が、その一見無意味に殺されていった人々の苦しみをご覧になり、御心に留めてくださったということです。ですから、私たちが苦難の中で祈り、その祈りがこの世の自分の命では叶えられないとしても、私たちは神様の正義に希望を置くことができるのです。
 江戸時代にひどい迫害を受けて殺されていった日本のクリスチャンの死は無駄ではありません。神は沈黙されているのではありません。未来への希望を持って、神の支配を確信していたから彼らは「転ぶ」ことなく、死を選択したのです。
 そして、それから300年の時を経て、日本の国が、キリスト教を認めざるを得なくなります。いやそれどころか、キリシタンの信仰は、綿々と江戸時代の迫害を耐え抜いて生き続けたのです。勝利は、唯一真の神を信じた神の民にあります。それは、私たちが、この世の目では敗北に追い込まれ、死ななければならないとしても、だからこそ、私たちの死の後に続く時代、未来の勝利を仰ぎ見て信じ、希望と恵みの内にあることを私たちは確信するということなのです。私のこの世の命を超えたところに私たちの希望はあります。それが永遠の命の私たちがこの世で仰ぐ光であり、その希望と平和はこの世のいかなる富や権力にも勝るものであり、奪われることはないのです。

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