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zoom RSS 2017年2月19日マタイ福音書15章21-31節「キリストのいやし」

<<   作成日時 : 2017/02/23 21:27   >>

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(2005年1月30日 筑波学園教会)

 イエス様とその一行が、ティルスとシドンの地方に行かれた時のことであったと、本日の聖書の言葉は伝えています。ティルスとシドンは、イスラエルの国の北側にある街で、当時、フェニキアという国の領土でした。その異邦人の地で起きた出来事です。

 「カナンの女」とは、この土地の女性で、イスラエルの神を信じない異邦人の女を意味します。この女の娘が、悪霊によって苦しめられており、娘を助けて欲しいとイエスに大声で叫び続けました。しかし、イエスを無視します。弟子たちは、この女の叫びにうんざりして、イエスになんとかして欲しいと頼みますが、イエス様は、助けようとはしません。それでも女は、イエスのもとにひれ伏して、助けを願います。イエスは、冷たく「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と、つっぱねます。これは「神の民、イスラエルを救うためにやって来たので、異邦人のあなたを助けることはできない」というような意味です。何か非常に差別的に聞こえるものの言い方です。
 しかし、女は、言います。
 「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」
 この女の答えに、主イエスは感心されて、女の願いがかなえられ、娘の病気はいやされます。

 このカナンの女をめぐる出来事、本日の聖書の箇所から、何を聞き取り、何を学ぶべきでしょうか?
いろいろな疑問があると思います。なぜイエス様は、「カナンの女を異邦人だからといって、犬呼ばわりするのだろうか?そんな差別が許されるのか?」、「イエス・キリストは、全人類の救いのために来たのではないか?」、また「こんな奇跡は本当にあったのだろうか?」というようなものもあるでしょう。
 しかし、これらのわたしたちの疑問は、聖書の言葉が伝えたいことを聞き取るとき、解消されます。わたしたちはよく、聖書に対して疑問を持ち、聖書を問うたり、批判したりさえしますが、真実は、聖書が、わたしたちを問うているのです。聖書がわたしたちに問いかけていることに耳を傾けることが大切なのです。

 本日の聖書のメッセージは、ただ一つ「何か困ったことがあったら、イエス様を頼れ。」ということです。このカナンの女の癒しの奇跡の後には、大勢の群衆の癒しの奇跡が続いてます。それは、「何でも困ったことがあったら、まずイエス・キリストに祈ってお願いしなさい。」ということです。あまりに単純でおかしいでしょうか?
 しかし、この実に単純明快なことが、わたしたちにとって決して自明のことではないのです。
 わたしは2000年の夏に水戸中央教会に赴任して参りました。みなさんの中にも、ご存じの方がいらっしゃると思いますが、この水戸中央教会は、当時、20年以上にわたって内部の問題で苦しんできました。礼拝も落ち着いて守れないような状況が、長く続いていました。今では、この問題は、幸いなことに解消されました。わたしたちは、神の恵みに感謝しています。この問題の解決の大きな鍵は祈りでした。一人の教会役員が、振り返っておっしゃった言葉が、大変印象に残っています。
「この水戸中央教会で、いろいろな問題が起こってきた頃、あのときは議論ばかりしていて、祈っていなかったですね。」という言葉でした。教会が一致して祈ったとき、大きな解決不能に見えていた問題が解決しました。何か困ったことがあれば、イエス・キリストに祈り願いなさいという極当たり前のキリスト教会の常識とも言うべきことが、わたしたちには案外分かっていないのです。

 イエス様だけが、わたしたちに解決と救いをもたらしてくださいます。弟子たちが、彼女の問題を解決したわけではありませんでした。礼拝とは、わたしたちがそれぞれ感謝や願いや日々の生活の重荷や喜びを神のもとに携えてくるところです。イエス様に向かって叫ぶところが礼拝です。なぜならば、主は、「わたしの名によって二人、三人の人が集まるところに、必ずわたしもともにいる」と、言われたからです。にもかかわらず、わたしたちは、何か、問題が発生したとき、教会の兄弟姉妹のあり方を批判したり、もっと簡単に牧師を批判したりするのです。神にその問題を訴え、ともに心を一つにして祈ろうとすることは、どうも非常にまれです。しかし、聖書は、一貫して、問題の解決は神にあると言っています。
 エジプトの地で、大きな苦しみの中にあったイスラエルの民は、神に叫びをあげたときに救われました。バビロンの地で捕らわれていたイスラエルの民は、やはり神に向かって叫んだときに、実になんの解放闘争を戦うことなく、突然、救い出されたのです。詩編の中にもまた旧約聖書の預言書の中にも、またその他のイスラエルの歴史の中にも、神に祈ったとき、神に助けを求めたときに、人々は救い出されているのです。そして、神が私達の叫びを必ず聞いてくださるというのが信仰にほかならないのです。そして逆に神でないものに助けを求め、救いを他の神に求めたときに、イスラエルに災いが下されているのです。

 イエスは、本日の聖書箇所で、拒絶されてもなをイエスに助けを求めるカナンの女に対して言っています。
「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」
何が彼女の信仰を立派なものにしているのでしょうか?それは、彼女がイエスにのみ助けを求め続けているからです。イエス自身に拒否されても、自分の救いはイエスにしかないと確信しているからです。

 イエス・キリストに助けを求め、救いを求め、彼に向かって祈り続けてゆくところに、わたしたちの救いがあり、それこそがわたしたちの人生の意味です。神はわたしたちの祈りを拒否され、願いを無視されているようなこともわたしたちの人生には起こります。それでもカナンの女は、イエス・キリストに向かって叫び続け、そして彼女の願いは聞き届けられました。わたしたちの祈りもまた、カナンの女の祈りを同じように、イエスに向かって祈り続けることが大切なのです。
 「祈り続けたが、結局、その人は、祈りが聞き届けられることなく死んでしまった。祈りなど、なんの意味もない。」ということはできません。なぜならば、わたしたちの主イエス・キリストは、十字架上で殺されて、復活された方だからです。たとえ、わたしたちの祈りが、わたしたちがこの世に生きている間に聞き届けられなくても、わたしたちの死後、それは聞き届けられることがありますし、永遠の御国において、全ては必ず聞き届けられるからです。そして、わたしたちの信仰は、わたしたちが願う以上のものをわたしたちに与えて下さるということにあります。

 わたしたちの人生の目的と意味は、神に祈ること、イエス様に祈ることにあります。わたしが、どんな業績を上げたとか、どのような地位についたとか、有名な人であったとか、どれだけ経済的に豊かになったかというようなことがわたしたちの人生の目的ではありませんし、生きる意味を与えるのでもないのです。
 主は、このマタイ福音書の最初の説教の開口一番におっしゃっています。「心の貧しい者は幸いである。悲しんでいるものは幸いである」カナンの女は、心の貧しい者であり、悲しんでいる者でした。ですから、彼女はイエス・キリストに向かって叫び続けたのです。主イエスに向かって願い続けたのです。
 大切なのは、本当は、問題が解決されることではないのです。大切なのはイエス・キリストに祈ることです。神に向かって叫び続けることです。神と共に、神に向かって生きることが大切なのです。
 神に祈り続けてゆくとき、イエス・キリストと共に生きるとき、目の前の問題は、一向に変化を見せず解決されないままであっても、わたしたち自身が、変えられてゆきます。わたしたちを取り巻く環境は、変わりませんが、わたしたちの内面が成長してゆきます。この内面の変化と成長こそが、この世のどんな宝石や宝よりも価値のある素晴らしいものなのです。イエス・キリストの言葉を信じ、彼から聞いたことを行ってゆくとき、彼の言葉に従ってゆくとき、この成長と変化は、わたしたちの内に確実に起こります。そして、その素晴らしさにわたしたちは圧倒されてゆきます。わたしたちはいやされてゆきます。

15:30 大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。
15:31 群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。

 足の不自由な者がいやされるとは、自分のことばかりを考えて人を助けるために行動を起こすことのなかった者の足がいやされて、人を助けるために生きるようになることです。目の見えない人がいやされるとは、人の気持ちの分からない者が、他人の気持ちを配慮するようになることです。体の不自由な人がいやされるとは、自分が愛されることだけを求めて不自由を常に感じていた者が、神からの愛によって人を愛し、自由に生きるようにされることです。口の利けない人がいやされるとは、人を傷つける言葉ばかりを発していた者が、人に慰めを語れるようになるということです。
 イエス・キリストによってわたしたちは、このようにいやされるのです。確かにわたしたちは、イエス・キリスト共に生きてゆくときにこのように変えられていくのです。

 そして、このように変えられていくために、わたしたちは、何か立派な人でなければならないとか、何か資格が必要だとか、これこれのことをしなければならないということはないのです。カナンの女もまた、その願いが聞き入れられました。カナンの女とは、イスラエルにとって敵国を意味しました。実際、イスラエルは、カナン人と何度も戦いをしてきました。たとえカナンの女であっても、イエス・キリストに願い続けたときに、その願いはかなえられました。

 ただイエス・キリストにひれ伏す勇気と願い続ける忍耐があなたに素晴らしい人生をもたらすのです。

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