水戸中央教会 牧師室

アクセスカウンタ

zoom RSS 2017年2月26日 マタイ福音書14章22〜36節「キリストの奇跡」

<<   作成日時 : 2017/03/01 11:51   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

改訂:2013年2月10日

 イエス様が湖の上を歩かれたという奇跡は、男だけで5000人の人々をパン5つと2匹の魚で満腹にしたという奇跡の直後に起こります。マタイ福音書の他に、マルコ福音書6章、ヨハネ福音書6章に同様の記録があります。
 「人間が水の上を歩いた」というと、私たちは、まず「そんな馬鹿なことがあるはずがない」「だから聖書は迷信だ」などと考えます。あるいは、「一体それはどのように起きたのだろうか?」、「イエスは、足をバタバタと水の上を走るトカゲのように早く動かすことができたのだろうか?」、「夜で岸沿いに歩いてくるのか何かを見間違えたのではないか」などなどと様々な憶測をします。
 しかし、そのようなことは、あまり意味がありません。なぜならば、これらの奇跡は「イエスを神の子である。」、「主なる私の救い主だ」という信仰の傍証でしかないからです。そして、先の疑問は「神の子ならば、そんなことができたかもしれない」という可能性を否定することはできないからです。これらの奇跡はイエス・キリストの超越性を示しています。水の上を私たちが歩けるようにならなければならないとか、2匹の魚と五つのパンで、私たちもまた男だけで5000人以上の人々を満腹させることができるようにならなければならないということでは、ありません。また超自然的な奇跡に合理的科学的な理由をつけるというのは愚かなことです。

 しかし、この二つの奇跡物語には、注目すべき特徴があります。これが「神の子なのだ」とも言うべき特徴があります。それはイエス様の5千人の給食の奇跡を行ったあとの行動です。主イエス様は、群衆を解散させ、一人になって山へ登って行き、祈られます。このようなことは、実は非常に難しいことです。私たちには想像もつかないことです。それは奇跡でもなんでもありません。群衆を解散させ、一人で山へ登って行き祈るということは、私たちの誰でもができると思うことです。しかし、私たちの誰もそんなことはしないのです。ここにこそ、このイエス・キリストがまさにキリストであり、神の子であることの事実が輝いています。

 5000人の人々に、わずかの食べ物を奇跡によって増やして、みんなを満腹させるというようなすごいことをやったら、もう人々は大喜びで、「この人にずっと従います。」と、イエスを褒め称え、賛美し、イエス様は、神の子に祭り上げられて、一大勢力になるでしょう。実際そのような群衆の熱狂があったとヨハネ福音書は記録しています。そして、その群衆の熱狂を利用して、奇跡を行いながら、従う群衆の数を増やして、エルサレムへ行き、王となってそこで改革を行えば、永遠の神の国が、建設されるではありませんか。それを群衆を解散させ、一人きりで祈るなどというのは、私たちは決してしないことなのです。
 私たちは、最初は一人で祈っていて、最初は無名でもだんだんに人々に知られるようになってゆくといういわゆる立身出世コースを心の中に持っています。そのような考え方に支配されて生きています。ですから、このような5000人の給食のような奇跡を行ったら、もう得意満面で、人々の賛美と賞賛にうなずいてしまうでしょう。そして、「神様、あなたは、私にこのような素晴らしいことをさせてくださいました。感謝します。どうぞ、あなたのご栄光が崇められますように」と、群衆の目の前で祈り始めるのではないでしょうか。「そんなに自分は単純馬鹿ではない」と思われるかもしれません。たとえば、私たちは、日常生活の中で、色々な、良いことをします。人々に喜ばれることもします。そして、人々の賞賛の声を「いえいえ、決してそんな大した者では私はありません」と謙遜な態度を示すことがあるでしょう。あるいはそのような場合、人々を避けるということはあるかも知れません。
 しかし、その一方で、なんかものすごく偉い人、たとえば、「天皇陛下からお言葉を賜った」なんていうことがあったら、もう有頂天ではないでしょうか。5000人の給食という奇跡は、明らかにそれ以上の出来事です。天皇陛下からお言葉を賜る人は、この世にいくらでもいますが、5000人の給食の奇跡は、前人未到です。そして、これから後の主が再びいらっしゃるその時まで、そのような奇跡を行う人は現れないでしょう。そんなことを行ったら、私たちはもう、自分を神様だと思い込んで、自分のやりたい放題。暴虐の限りを尽くすようになるでしょう。
 水の上を歩くという奇跡も、おそらくそのような力があるとなったら、なるべく多くの人々を集めて、その面前で行ったことでしょう。しかし、主はそのようにはなさいませんでした。もちろん、そうしなかったのは、実はでっち上げだからだと思われるかもしれません。しかし、この世の偽宗教を見れば、明らかなように、そのようなでっち上げは、教祖が生きているあいだに、教祖自身がそれをでっち上げるのです。そして、その教祖が死ぬと忘れられてゆきます。
 イエス・キリストの奇跡は、イエス様が地上を去った後に、ますます人々に知られるようになりました。
 私たちは、5000人の困っている人を助けるという理由で、大して困っている人々では実はないのですが、祈りをおろそかにします。一人きりの祈りなど、ほとんどしないというのが実情です。一人きりで神様に祈ることを習慣にするというのは、実は、なかなか難しいことです。「私は、一人でよく祈っていますから、教会の礼拝にはあまり行きません」という人が、たまにいますが、それはおかしいのです。なぜならば、聖書には、教会の礼拝のように何人かで集まって祈ることを非常に大切なこととしているからです。イエス様ご自身、「二人、三人が、私の名によって集まるところにわたしも共にいる」と約束されています。イエス様も会堂の礼拝に出席して教えを述べていらっしゃいます。聖書を読んで、その御言葉に聞き従おうとするならば、決して、「一人で自分は祈っているから、教会などの礼拝に参加しなくても良い」という意思決定には至りません。聖書には、「教会の集会を重んじなさい」と、書かれているからです。
 私たちの聖書の理解がなかなか進まないのは、私たちが御言葉に従って生きる決断をしていないことにも原因があります。そして、理解できないことを安易に、「こんな奇跡は荒唐無稽だ」、「科学の時代にこんなことはおかしい」というべきではありません。まぁ言っても構わないのですが、これらの言葉は、要は、自分がなにか人々が賛美するような素晴らしい業績を行えば、それに相応する報酬を求める人間であると表明しているに過ぎません。
 私たちの怒りの原因はどこにあるでしょうか。それは、自分が正当に認められていないということにあるではないですか。つまり、自分が相応に人々から認められるという報酬を求めているのです。
 そのような立場に立つ限り、聖書の御言葉は理解不能です。ですから、私たちには、聖書の御言葉は、むつかしいのです。信仰とは、価値観の土台です。土台の違った価値観で物事を見ますから、私たちの聖書理解は歪んだものになります。

 聖書が、私たちに教えているのは、人間は神によって創造されたということです。神様は、あなたを認めているということ、そして愛しているということです。自分が生んだ子を親が愛するように、神様は、親以上の親などはるかに及ばないほどの深い愛をもって、私たち人間を愛して下さっているということです。つまり、神様から認められているのならば、もはや誰からも認められる必要はないということです。
 つまり、それはどういうことかと言うと、自分が正当に認められていない、「なんで私がこんな目に遭わなければならないのか」という思いは、自分が神様を認めていなかった。神様の御心など考えたこともなかったし、考えていないということです。「神様なんているわけないでしょう。」と思っていたり、「私の願いをなんでもかなえてくれるのが神様だ」と思っていたということです。つまり、神様は、私の願いを叶える召使です。アラジンの魔法のランプの巨人のような、おまじないなどによって、自分の言うことを聞く、あるいは、心の平安を与えてくれるだけでもいいから、とにかく自分の願いがかなう、かなえてくれるのが神様だと思っていたということです。それは、つまり、本当の神様ではなくて、私たちが勝手に作り出した神様です。神様はそのような方ではないからです。
 神は、私たちを創造し、愛しておられる。そして、私たち人間、一人一人に役割を与えて下さっていて、共に神様を主と崇めて生きる時に、その神様から与えられている役割を果たしているということです。その神様がいらっしゃるということを示して下さっているのが、神の子イエス・キリストです。
 そして、「神様は、どんなことがあってもちゃんとあなたの事を愛して、最善の事をしてくださる方だ。」という証拠がイエス・キリストの復活です。どんなひどい目にあっても、復活するならば、いいじゃないですか。この世でどんな栄華を極め、素晴らしい能力に恵まれ、1000年たっても語り伝えられたとしても、復活することがなければ、それは風に吹き去られるもみ殻です。
 よく考えなさいとイエス様は教えて下さいました。
そして、私たちの誰も、死んで1000年たっても覚えられているなんて人はいません。死んだらお終い。今のこの瞬間しか考えていないのが私たちです。
 私たちが、この生涯を通じて、試されていることがあります。それは私たちの信仰です。どんな境遇の中でも神を信じて生きることができるかどうかです。どんな境遇でもというと、どんな不幸の中でもと私たちは考えがちですが、いわゆるこの世の不幸は、信仰に立ち返る機会となることが多いのです。難しいのは、この世的な意味での成功や幸福の中に生かされている時です。
 神様に忠実に謙遜に歩む一週間でありたいと願います。
 


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
2017年2月26日 マタイ福音書14章22〜36節「キリストの奇跡」 水戸中央教会 牧師室/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる