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zoom RSS 詩編036篇 聖書を学ぶ会 2017年2月23日

<<   作成日時 : 2017/03/01 11:54   >>

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1 【指揮者によって。主の僕の詩。ダビデの詩。】
指揮者によって、ありますので神殿の礼拝などで用いられた前提が考えられます。「主の僕の詩」とされているのは特徴的です。「僕」は、いわゆる「奴隷」と同じ言葉が用いられています。ダビデの詩とありますのは、ダビデ王の作と考えても全然、支障がありません。ダビデ王は、一国の王ですが、それが主の僕、奴隷と自ら位置付けているのは、やはり特徴的なことです。

2 神に逆らう者に罪が語りかけるのが/わたしの心の奥に聞こえる。彼の前に、神への恐れはない。 3 自分の目に自分を偽っているから/自分の悪を認めることも/それを憎むこともできない。 4 彼の口が語ることは悪事、欺き。決して目覚めようとも、善を行おうともしない。 5 床の上でも悪事を謀り/常にその身を不正な道に置き/悪を退けようとしない。

 「神の僕の詩」という前提の下で、「神に逆らう者」について語られます。「神に逆らう者」は、「よこしまな者」「邪悪な者」という言葉であって、実際に原語で、「神に-逆らう-者」と書かれている訳ではありません。「罪」は、「違反」という言葉です。「私の心の奥に聞こえる」という表現は非常に特徴的です。この詩人自身の中に、神に逆らう者がいるという解釈も可能ではないかと考えられます。「自分の目に自分の目を偽っている」とは、「高慢」という言葉によって理解されることがらです。このようなことは、私たちには日常的に起こります。「彼または彼女は私にこんなひどいことを言ったんですよ」という同意が求められることがあると思います。その際、その私が、その彼または彼女に何を言ったり、したりしていたのかは、通常、語られません。ですから、自分の悪を認めること、自分の悪を憎むことが非常に大事であり、決定的なことです。自分の悪を認め、憎むこともできないので、その人の語ることは、悪となります。つまり、自分の思いや願望が善悪よりも優先されるということです。善悪など関係ないのです。つまり、自分がそこそこ生きて行ければいい。自分がそこそこ生きていくということが、価値の中心にあるのです。しかし、そのそこそこというのは、他人よりも優っているということが、基本的な自己認識のパターンなので、常になにかしら自分と他人を比較して、優っている必要があり、そこに安心感を見出すので、非常に厄介です。つまり、際限がないのです。
 ですから、私たちにとっては、自分が劣っているところを見出すことができること、劣っているからと言って、自分の人間としての価値が低くなるわけではないということを見出すことが必要なのではないかと考えられます。

6 主よ、あなたの慈しみは天に/あなたの真実は大空に満ちている。 7 恵みの御業は神の山々のよう/あなたの裁きは大いなる深淵。主よ、あなたは人をも獣をも救われる。 8 神よ、慈しみはいかに貴いことか。あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ 9 あなたの家に滴る恵みに潤い/あなたの甘美な流れに渇きを癒す。 10 命の泉はあなたにあり/あなたの光に、わたしたちは光を見る。

 悪を行う者は、人と自分を見比べますが、神の僕は、神の慈しみと真実に目を向けます。「主よ」と、呼びかけています。これは、いわば、みだりに唱えてはならない神の御名の言葉が用いられています。つまり「神よ」という言葉ですから、「主よ」と呼びかけているので、「僕」が、ここで言外に言及されているということはできません。「恵みの御業が山々のようと」言っています。どんな人間が建てた建造物も、どこにでもある山々とさえも比べものにならないほど小さなものであるのは明らかです。後楽園のドーム球場とか大きいなぁと思いますが、実際大きいですけれど、この天と地を創造された神様の御業に比べたら、比べるのも恥ずかしいことです。しかしながら、私たちにとっては、それが全てであるかのように思ってしまいます。「主よ、あなたは人をも獣をも救われる。」という言葉は、宗教的な意味でとらえられるべきと考えられます。それは、獣は、多神教の宗教世界において、神や神の使いとして位置付けられていることです。ですから、獣は神ではなく、獣も神に救っていただかねばならない存在であること、人間も、神様によって造られているという点で同じ被造物であることが言われています。
 神の慈しみの貴さを私たちは知っているでしょうか?よく晴れた、美しい空を見ると、神様は素晴らしいと思ったりします。それも一つの神の慈しみの貴さを知ることではあるでしょうけれども、私たちは、この神の慈しみの貴さを見ること、あることすら、忘れがちです。というよりも聖書によって教えられなければ、私たちはそのようなものがあることすら分からないのです。美しく輝く朝日を見ると、私たちは神の慈しみを知るのではなくて、「それが神だ」と思い手を合わせたりするのです。それが何が悪いと思われるかもしれません。しかし、それは神をないがしろにし、悪を悪として見ることができなくしてしまう行為なのです。なぜならば、誰が、その朝日を美しいと判断しているのか、それを神だと判断しているのかということが問われるからです。自分が神々しいと思ったものが神であるということになっている訳ですから、神が神であることを決めているのは、私たち人間であることになります。そうしますと、自分の価値基準、私たちの決定が神様よりも権威があることになるので、私たち自身が価値の基準になっており、善と悪の違いが、私にとっての善悪に変換されてしまうので、自分が悪であるということが分からなくなるのです。

11 あなたを知る人の上に/慈しみが常にありますように。心のまっすぐな人の上に/恵みの御業が常にありますように。 12 神に逆らう者の手が/わたしを追い立てることを許さず/驕る者の足が/わたしに迫ることを許さないでください。 13 悪事を働く者は必ず倒れる。彼らは打ち倒され/再び立ち上がることはない。
 神様を見上げ、神さまを礼拝することに常に心を向けるようでありたいと願います。この天と地とすべてのものを創造された神を信じるということは、ただ自然が美しいというときにだけ、「神様がいる」と思うのではなくて、自然が荒れ狂うときも、「神様が私を見捨ててしまったのではない」ということであり、神は私たちとどんな時も共にいて下さり、守り導いて下さっているということです。
 「あなたを知る人の上に/慈しみが常にありますように。心のまっすぐな人の上に/恵みの御業が常にありますように。」と、言われています。天と地を創造された神を信じることは、同じ神を信じる人々の間に連帯をもたらします。私たちが、偶像の神を信じる時、私たちは自分に関係のある人やとどのつまりは、自分のことしか祈らないものです。「あなたを知る人」、「心のまっすぐな人」の範疇に、当然、詩人自身も含まれているとは理解されますが、私たちの祈りの中においては、このような祈りは非常に特異です。それは天の使いの神への賛美と重なります。
 ベツレヘムで主がお生まれになったときに、羊飼いたちに天使の軍勢が現れた時、「天に栄光、地には、御心にかなう人々に平和があるように」と賛美しました。つまり、この「あなたを知る人の上に/慈しみが常にありますように。心のまっすぐな人の上に/恵みの御業が常にありますように。」という祈りは、この祈りの言葉を言う人の立場を明らかにしています。つまり、それは神に仕える人、神の僕の祈りであるということです。神の僕として神に仕えるということは、このように祈り願い、行動する人々であるということです。
 それは、「私はあの人のおかげでこんな風になってしまった」ということではないということです。それは神の僕の口にすることではなく、「神に逆らう者に罪が語りかけるのが/わたしの心の奥に聞こえる。」という罪の語りかけなのです。
 なぜならば、全てを支配しておられるのは神であって、神の御心に反してはなにも人はできないのです。ヨセフ物語を思い出していただきたいのです。
 ヨセフの兄弟たちは、ヨセフを妬んで、捕らえてこれを通りがかりの商人に売りつけます。本当は殺そうとしたのです。そしてヨセフは、エジプトへ奴隷として売られます。「あのひどい兄弟のおかげで、俺の人生は無茶苦茶だ」と言って全然おかしくないのです。しかし、そのヨセフを用いて神はイスラエルの民の救いの御業を行い、ヨセフは素晴らしい神の救いの御業を体験するのです。
 私たちにとって悪いことが、悪いこととして終わってしまうのではなくて、神様の目から見るならば、それは必要なことであり、それを通して人は人となってゆくのであり、全ては神の恵みの内にあるということであり、それはとりもなおさず、天地の造り主は神であるということなのです。

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