水戸中央教会 牧師室

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zoom RSS 2017年3月5日 マタイ福音書4章1〜11節「荒野の誘惑」

<<   作成日時 : 2017/03/09 05:17   >>

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 一昨日の夜、インドネシアの北スラウェシで、アニタ牧師が、天に召されました。アニタ先生は、夫のリファイ・ボビー・パレンプン先生と共に、2010年から2013年、大洗ベツレヘム教会のために水戸中央教会が招聘した宣教師として奉仕して下さいました。丁度、東日本大震災の前後で、大洗の教会にも津波が押し寄せ、避難生活も経験されました。そんな中で、水戸中央教会の引越しなどに、大洗ベツレヘム教会の方々と一緒に手伝いに来てくださいました。礼拝の奉仕もしていただきました。ご遺族の方々に平安を祈ります。
 そしてまた、2011年3月11日を記念する礼拝が、水戸中央教会で持たれます。まだ困難のただ中にある人々があり、アニタ牧師のご家族のように、震災で受けた被害の悲しみに、加えて、悲しみを味わう人々があることを覚えたいと思います。

  イエス・キリストの十字架の死とこの世の苦難を思い起こす受難節を迎えました。わたしたちイエス・キリストを信じる者にとって、この期間は、本当に大切な時です。この世の人々は、華やかなクリスマスに目を奪われますが、私たちの信仰の土台を問い直すのは、この時期です。
 洗礼者ヨハネから悔い改めの洗礼を受け、天から、「わたしの愛する子」という神の声を聞いたイエス様は、直ちに荒野へと霊によって導かれます。そこで、試みを受けるためでした。40日40夜の断食は、驚異的なもので、普通は、死んでしまいます。長期にわたる断食の修行などでは、水だけは許されています。それで40日を超える断食などもありますが、何も食べも飲みもしなかったというのは驚異的です。誘惑をする者が現れるのは、この断食の後です。
 神の子が、そもそもなぜ断食をして、しかも荒野という厳しい環境での生活をするという試練を受けなければならないのかと、私たちは問うことができるのではないでしょうか?
 私たちが神様を信じようとする、つまり神様に祈る時というのは、普通は、困難や問題に直面したときです。人生の危機に直面して、それから抜け出すために、あるいは克服するために、あるいはどうしようもならなくなって、つらくて神を求めます。「助けて下さい」と言って神様のもとへ来ます。洗礼を受ければ、神様の子とされて、この人生の苦難から脱出することができるかもしれないとか思ったりして、洗礼を受けたり、教会に熱心に来たりするかもしれません。
 しかし、イエス様の洗礼とそのあとのに続く出来事を見ると、洗礼を受けて、神の子とされるということは、神様が、私たちをよりかわいがって、何でもしてくれるということではなくて、神様に仕える、神様に奉仕する者となるということだと理解されます。
 イエス・キリストがヨハネから洗礼を受けた時に天から聞いた言葉、「これは私の愛する子、これに聞け」という言葉と聖霊が鳩のようにイエス様の上に降ったということは、イエス様にとって、ご自身のこの世に遣わされている意味、要するに、自分は何のために生きているのかという生きるのかという人生の目的が示されたということです。それは父なる神様の御心を行うことだということが明確に宣言されたということです。
 人生の大きな目的が示された時、私たちは、自分がその目的を達成することができるようにするために、あるいは、目的遂行のために必要な能力を獲得するために、自分自身を訓練しようとします。それが「荒野の誘惑」と一般に呼ばれる「荒野の試練」です。
 つまり、私たち洗礼を受けた者たちにも、それぞれが神様のために働くためにそれぞれの人生の目的が与えられているということです。置かれている状況の中で、なすべきことがあるということです。
 それに対して、群衆は、自分の欲や目的のためにイエス様のもとに来ます。何か珍しいものを見るような、不思議な業を見るためにやってきます。そして、それを見て、驚いて、神を賛美したりしますが、彼らは去ってゆきます。イエス様に、神様に仕える者とはなりません。それは空しいことです。私たちは群衆ではありませんし、群衆になってしまってはなりません。そのために私たちは今日、この受難節の始まりに当たって、このイエス様の荒野の誘惑の記事を読み、私たちに与えられている人生の目的、そこには、私たちの全生涯を決定する最も大切なことが示されていることを確認するのです。

1 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。 2 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。 3 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」 4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」

 この試みに前提されていることは、イエス様には、石をパンに変える力があるということです。その事実は、イエス様が、子供が差し出した2匹の魚と5つのパンで、男だけで5000人、女性や子供も含めれば10000人以上は、いたと考えられる群衆を満腹させ、なお12の籠に余ったという奇跡です。実際的な神の力は、自分の必要を満たすものではないことが言われていると考えられます。人間の親であっても不完全ながら、愛する子供の必要を満たすために、自分は食べずにいるということはあることで、理解し得ることです。
 またこの三つの誘惑について共通していることがあります。それは、イエスに「こうしたらどうだ」というのは、誘惑する者であり、悪魔であるということです。そして、悪魔の誘惑は、一見、理にかなっており、正しいように見え、それを行わないと神の子ではないように思えるということです。しかし、神の子が神の子である真実は、神の言葉に従うということであり、神様に従うということです。
 ですから、イエス様は、誘惑する者に対して、聖書の言葉で応えています。申命記8章3節の御言葉で、これは、神様が荒野で、イスラエルの民に天からのマンナを持って養ったことを前提としている言葉です。
 私たちが神様のために奉仕をするには、神の言葉を知らなければなりません。神の言葉である聖書には神の御心が示されているからです。

5 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、 6 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」 7 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。

 神殿から飛び降りても、地面に激突して死んでしまわない力が神の子には当然あるでしょう。またそのような力があることを悪魔は知っているのです。聖書には水の上をイエス様が歩かれた奇跡があり、復活されたイエス様は弟子たちの前で天に昇って行かれたと記されていることは、イエス様にはそのような力があることを証明しています。
 悪魔の言葉に従うのではなく、神の言葉に従うのが神の子ですから、同じように悪魔の言葉に従うのを神の言葉である聖書を根拠として拒絶しています。もしこれが、「あなたは悪魔であり、私の父なる神に敵対するものだから、従わない」と答えたとしますと、イエス様はご自分の知恵と判断力に基づいて判断をしたことになりますから、自らの知恵と判断を誇ったことになります。それは神に栄光を帰すのではなくて、神の栄光を自分が横取りすることになるため、避けなければならないことなのです。
 「なんだか神様に従うのは、色々と難しいなぁ」と思われるかもしれません。確かにそれは容易なことではありませんが、何かややこしい複雑なことではないのです。ただ、御言葉に聖書を読み、行うことにいかに真剣であるかということだけなのです。

8 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、 9 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。 10 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」 11 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

 世のすべての国々とその繁栄を自らのものにすることは、神の子にとっては、無用のことです。これは、5000人の給食の奇跡を起こした時に、群衆が、押し寄せてきてイエス様を王にしようとしたことに対応します。また、弟子たちに、ご自身の十字架への道を話された時、それを止めようとした、ペテロに対して、イエス様が「退け、サタン」とおしかりになったことと対応しています。
 ここに、私たち人間が、そもそも何のために生きているのかという人生の目的が明瞭に示されています。まっすぐな道がクリアに示されています。その道には素晴らしい約束と平安があり、恵みが溢れています。
 ふと、最近、教会外の人々と話していて、やっぱり教会の中の人々は違うなぁと思わされたことがあります。
 それは、話題が延々、どこの何はおいしいとか、そんなものはおいしくないとか、どこへ旅行に行ったとか、今度はどこへ行きたいとか、どんなブランドものを身に着けているとかいうことで終始しているのです。
 私もクリスチャンとして歩ませていただく中で、やっぱりこの世とは違った世界に生かされていることを思わされている次第です。それは上から目線で、この世の人を見ているということではなくて、私たちがいかに神様に仕えているかということではないかと思うのです。ブランドといえば、たとえば、英美子先生の教会の先生はフィリピンのごみの山に暮らす人々を助ける活動をしていて、捨てられているジュースの袋を縫い合わせてバックを作って販売しています。
佐渡教会の荒井真理先生は、バングラデシュの貧しい村の人々の収入になればと向こうの刺繍を販売しています。
牧師としての奉仕の中で、やくざの関係のことも話に聞くことがあります。やくざの人々は、まさに見栄の世界でブランド物で身を固めています。「超高級品、ブランド!」と私たちが喜んで持っているバックや財布は、同じものをヤクザも持っていると考えると、イエス様が「あなた方の宝を天に積みなさい」と、おっしゃった言葉がよく分かります。

25 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。 26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。 27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。 28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。 29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。 31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。 32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。 33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。 34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

 私たちはこの御言葉に従って、今一度、私たち自身の生活を顧みたいと願います。

 またそのような意味で本日のギデオンメッセージもまた大切なものだと思うのです。

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