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zoom RSS 詩編145篇1-13節 聖書を学ぶ会 2017年3月23日

<<   作成日時 : 2017/03/23 19:53   >>

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1 【賛美。ダビデの詩。】わたしの王、神よ、あなたをあがめ/世々限りなく御名をたたえます。

 神様に捧げられた賛美の歌であり、ダビデ王の詩と言われています。神に対して、私たちが「わたしの王よ」ということは、実は非常に稀です。王であるダビデ王が、神を王と呼んで、その支配のもとにへりくだるということも非常に特異です。王は普通は、日本の国家神道のように、王自らが神となってしまいます。キリスト教やユダヤ教などがその昔、バビロンやローマ帝国などで迫害を受けたのは、皇帝や王が、その国の神とされて、礼拝を強要された時に、唯一真の天と地を創造された神は、皇帝や王ではないとして、拒否したからです。それはその国の王や皇帝に対する不服従であり、反抗と見なされ、迫害されました。
 「私の王よ」という祈りが、自然と私たちの口から出てくること、私たちが神に対して「王よ」と告白することは、ほとんどないといってもいいほどです。それは、私たちの神道に見られるように、要は人間が神となってしまうことに示されているように、私たちの思いの根底には、自分が崇められ、世々限りなく、自分が賛美されることを願う思いがあるからです。
 今年は、宗教改革500周年ですが、ルターは、大学の先生として神学を教えている時に、この詩編を講義しました。そして、自ら詩編を講義しながら、神の恵み深さを知ったと彼は言っています。彼は、大学生であったときにまず、法学を勉強して身を立てようとしますが、様々な人生の悩みの中で、法学を捨てて、神様に仕える修道士になることを自ら選びます。しかし、当初、彼は、神を信じても不安があり、心が満たされませんでした。神様は、人間を裁く方であって、どんなに人間がいいことをしても、小さな欠点を見つけ出して罪に定めるような意地悪な神様だと思えたからです。これは、彼自身がよくあろうとして一生懸命に努力していたことを示しています。そして、よくあろうとすると、ますます、自分の悪いことが見えてくるというジレンマに陥るからです。そのようなルターにとってもこの詩編の立場は、ルターに人生観や信仰とは全く違ったものであることが分かります。
 詩人は、自分が今、どのような素晴らしい人生を送っているのかとか、自分は、こんな素晴らしい富を所有しているとか、才能に恵まれているとか、高い地位についているとかあるいは、それらを所有していないとかいうことを考えていません。彼が見つめているのは神様の素晴らしさです。自分のみじめな人生や愚かさ、あるいは自分自身の素晴らしさや賢さではありません。
 この天と地を創造され、全てを支配しておられる神を詩人は見つめて、その偉大さを賛美しているのです。自分が認められることより、神を自分が認めることが、この詩人の立っている霊的な信仰の場です。神を礼拝し、御名を世々限りなく崇めることです。
 それはつまり神の律法を守ること、世々限りなくとは、自分がどのような状況に置かれようとも変わることなく神を崇め礼拝するということです。自分が調子がいい時だけ、「神様ありがとうございます」とか調子のいいことを言ったり、自分が調子の悪い時だけ「神様、助けて下さい」と祈ったりして、その調子のいい時、悪い時が過ぎ去ってしまうと、神様のことなど考えないというのではないのです。

2 絶えることなくあなたをたたえ/世々限りなく御名を賛美します。

 「絶えることなく」神を讃えるということを私たちは求めているでしょうか?それはなんか自分が称賛されて人を見下げることができるような立場や経験をしたときに、瞬間的にのみ言ったり思ったりする言葉ではありません。聖書に書かれ、記録されているということも一つの意味があると考えてもいいと思いますが、つまり、それは、自分がどんなに世間の目から見るならばみじめで、情けない状態であっても関係ない、それも神の御名を賛美する時だということです。
 そしてまた、それはこれから死んでゆくという時も同じです。むしろ、死に直面して、この世を去ってゆくときにこそふさわしい言葉です。それはつまり、人生において決定的な絶対的な言葉であるということです。

3 大いなる主、限りなく賛美される主/大きな御業は究めることもできません。

 神様に対する賛美は、ですから常に捧げられるべきものです。私たちの置かれている状態や感情に関係なく神は限りなく賛美される方です。自分の良い時に神を賛美し、悪い時に賛美しないということならば、限りがある訳です。「そんな杓子定規ではないでしょう」と、思われるかもしれませんが、聖書が生ける神の言葉というゆえんは、このような杓子定規なところにあるのです。それは状況に当てはまらないというのではなくて、状況を作り出していく物事の根本的な価値観なのです。“Oh my God!”などとキリスト教に文化が基盤を置いている欧米などで、驚いたり、嘆いたりするときに言われる言葉は、このように常に神を讃え、賛美するという聖書の教えに基づいている習慣と考えられます。
 ですから、この神を讃える詩編は、私が苦しくてどうしようもなく、悲しみのどん底に落とされた時こそむしろふさわしいのです。痛みの中で、悲しみの中から、孤独と孤立の中にある時に、この詩編を通して神を私たちは賛美することへと召されているのです。

4 人々が、代々に御業をほめたたえ/力強い御業を告げ知らせますように。

 悲しみと絶望のどん底にあって、この詩編が口にされるとき、そこには未来が開けてきます。永遠の未来の幻を私たちは与えられ、その幻に向かって、自らのこの世の命を傾けて終わらせることができるのです。この世の命の終わりに向かって初めて私たちは進むことができるのです。

5 あなたの輝き、栄光と威光/驚くべき御業の数々をわたしは歌います。

 この世の命の終わりに向かって歩むとき、悲しみの中で御名を賛美し、苦しみの中で神を讃える時、私たちは神の輝きの中に生かされていることを体験します。私の孤独と悲しみにおいて神を讃えるということは、そこは私の栄光と威光は全くないという場です。そこにあるのは、ですから神の輝きと栄光と威光しかありません。そのように、この世の人々が神を賛美することができないような、むしろ呪う理由とするような状況の中で神を賛美することは、実に「驚くべき御業の数々を歌っている」ことです。

6 人々が恐るべき御力について語りますように。大きな御業をわたしは数え上げます。

 世の人々が神への信仰によって生きた人々を見て、感動と驚嘆を覚え、神を信じるような機会となる時、そのような証を残すことができる人々の人生は決して平たんなものではなく、労苦と困難と悲しみに満ち溢れたものであることが多いのです。それは、そこにこそ、神の恵みと慈しみが光り輝いているからです。

7 人々が深い御恵みを語り継いで記念とし/救いの御業を喜び歌いますように。

 苦難の中にありながら、神を愛し、人々を愛した人々は、私たちにとって、自分の人生を決定的に回心へと導きます。神様の恵みは、私たちが、生きられないような状況の中で、生かして下さった御恵みであり、先日、小西兄弟がしみじみとおっしゃっていたような、「自分は本当に守られてきた」という述懐です。それはこの世的にいわゆる功成り名を遂げた人々に謙遜をもたらします。深い御恵みとは、困難や苦難の中にも、人々から見捨てられたような状況の中にも神は私たちと共にいらして、私たちは神を賛美することができるということであり、神を賛美することによって、その苦難の中に生きることができるということです。

8 主は恵みに富み、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに満ちておられます。

 神を賛美することが、私たちのすべての人生の場面でふさわしいということです。神は恵みに富み、憐れみ深くとあります。つまり、これはルターが当初持った、厳しくて意地悪な神様とは全く違う概念です。神は忍耐強く、慈しみに満ちていると言われていますが、ルターは、癇癪もちで、人を地獄の火で虐待する方だと思っていたのですから、その神様像とは明らかに異なっています。よく、病も神様からの授かった恵みであると告白されていた信仰の先達が私たちの身近にもいることが思い出されます。

9 主はすべてのものに恵みを与え/造られたすべてのものを憐れんでくださいます。

 「私の人生になんの恵みがあったのだろう」と思うような人の人生にも神の恵みは満ち溢れています。打ち捨てられて見捨てられたような人々にも神の恵みと憐れみがあります。それが証明されいるのが、あの出エジプトに至るまでに苦しめられて死んでいった多くの人々です。だから、何のために生きたのかということが、私たちの人生の価値を究極的に決定することです。どこまで到達したかは関係がありません。何のために生きたのか、神を賛美し、そのご栄光を讃えるために私たちは創造されたのです。
 どんなみじめな状況に置かれても私たちから神を賛美するという人生の目的を取り去ることはできません。もしその目的を取り去ることができるというならば、それは、私が今置かれている状況にある人は、生きている意味がないということになるからです。こんな状況の中で神を賛美することができるという考えは、同じような状況に生きている人々に、「生きていていいんだ」というメッセージなのです。そしてそれは、私たちに神の愛が注がれているという徴であり、その愛によって、私たちが人々を愛するということがどのようなことなのかを知る瞬間なのです。それは恵みの時、感謝の時です。孤独の中にいるかもしれませんが、全ての人と一体になっています。神の前に確かに人として立っているのです。

10 主よ、造られたものがすべて、あなたに感謝し/あなたの慈しみに生きる人があなたをたたえ
11 あなたの主権の栄光を告げ/力強い御業について語りますように。

神の前に人として立つということは、造られたものすべてとの関りの中で、あなたに感謝しているということであり、生き、生かしているということです。すべてを生かしてくださっているのは、もちろん神様ですし、だからこそ神様に感謝をするのですが、同時に、私たちが、「死んでしまいたい」と思うような状況の中で生き続けることは、同じような状況の中で生きている人を認めて理解し思いやる愛の基礎を形成することになります。
ダビデ王は、神を賛美することを自分のこの世の使命としています。そして、神を賛美することは、私たち人間の使命です。私たちもまた、神を賛美することにおいてダビデ王となんら変わる者ではありません。私たちもまた王なのです。
新約では次のように言われています:
ペトロの手紙一/ 02章 09節
しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。

12 その力強い御業と栄光を/主権の輝きを、人の子らに示しますように。
13 あなたの主権はとこしえの主権/あなたの統治は代々に。

 神がこの世を支配し統治されている方です。その方の下で生き、その方に認められているということが、何よりも私たちに平安と満足と喜びをもたらすものです。
 祈り、聖書を読み、何をなすべきかを考え、行動し、それを神様にお知らせするために祈るという生活において、神様の御業と栄光、主権の輝きが、私たちの内に場を広げ、強固にして、私たちの哀れな人間の生涯を主のご栄光で神様は満たして下さいます。
 私がどう思われるということではなく、神様がどのように思って下さっているかであり、どんな時も神様は愛して下さっているのですから、神様の愛と恵みと慈しみに生き、人を愛し、恵み、慈しむことができますようにと祈る者でありたいと願います。

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