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zoom RSS 2017年4月2日 マタイ福音書20章20〜28節「仕えられるためではなく、仕えるために」

<<   作成日時 : 2017/04/07 23:47   >>

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 「イエスは誰なのか?」ということがごく一部の弟子たちの間には明らかになっていました。ペトロが告白したとおりに、「神の子、キリスト」です。そして、イエス様はご自分がこれから、ファリサイ派の人たちや律法学者たちに捕らえられて、十字架につけられ、三日目に復活するという神のご計画を明らかにしました。多くの弟子たちは、イエス様のおっしゃったことが理解できませんでした。弟子たちの中で、真っ先に「あなたは生ける神の子、キリストです」と、告白することができたペトロでさえ、それは信じられませんでした。イエス様は、中心となっている十二弟子の中でも最も信頼していたペトロとゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネの合計三人を連れて、高い山に登り、そこでご自身の超自然的なお姿を現されました。そして、そのことを決して、全ての神様のご計画が完成するまで言わないようにと命じられました。その後、イエス様は三度、ご自身の死と復活を弟子たちに語ります。弟子たちも、三度目にイエス様が語られたとき、ある程度、了解せざるを得なかったのでしょう。「イエス様のおっしゃることは本当で、本気なのだ」と、ある意味理解した訳です。ゼベダイの息子たちの母もそれを理解し、イエス様に大きな信頼を寄せている一人であったと考えられます。
 彼女は、復活したイエス様が父なる神のもとに行かれ、そこで王座に就かれるのだということを理解し、信じました。そこで、彼女は息子たち二人を連れて、イエス様に、「自分の二人の息子たちをイエス様の王座の右と左に座る者として下さい」と願い出ました。イエス様は、ご自分が歩まれる十字架の道という苦難を通り抜けなければならないことをよくご存じでしたから、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」と退けられます。
 しかし、二人の息子たちは、「杯を飲むことができます」と答えて食い下がります。イエス様は、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」と、おっしゃって彼らの願いを完全に退けられます。
 他の弟子たちはゼベダイの息子たちがなした抜け駆けに腹を立てますが、イエス様は、「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」と、弟子たちが互いに仕え合うようにという命令されます。

 私たちはこのゼベダイの息子たちとその母の行動を見て、「何と浅ましいことだろうか。彼らはイエス様がこれから受けられる苦しみも知らずにのんきなものだ」と心に思います。 しかし、真実はそうではありません。このゼベダイの息子たちの母は、大変に敬虔な信仰深い母であったことがここに明らかにされています。おそらく彼女は初代教会の中で非常に中心的な役割を果たしていた女性であると考えられます。なぜならば、ゼベダイの息子たちの母は、この自分の過去の誤りを見つけだし、忘れることなく後世に伝えることを良しとしているからです。他の弟子たちが、この三人のなしたことを愚かなこととしていつまでも覚えていて、彼らを憎んでいたということでは決してありません。なぜならば、他の弟子たちも彼らに対して憤ったことが記録されており、イエス様から共に叱られているからです。そして、この自分たちの愚かさを後世の人々に伝えようとしたところに、このイエス・キリストの弟子たちの素晴らしさがあります。
 このゼベダイの息子たちの母やイエスの弟子たちを私たちは神様の御心を悟らない愚かな人々と言うことはできません。そうではなくて、私たちよりはるかに謙遜で信仰深いからこそ彼らは自らの愚かさや過ちを告白することができたのです。通常、私たちは死んでから、自分が本当にひどい人であったと言われることを恐れます。自分が情けないひどい人だということを自分では思っていても、人から言われたり、ひどい人というレッテルを貼られないように用心深く隠します。偉大な業績を成し遂げた人々の伝記は、その人がいかに素晴らしい人であったかを書き記すことに終始しています。
 しかし、イエス・キリストに出会った人々はそうではありません。自分の愚かさや醜さ信仰のなさを正直に告白しています。それを集めたのが新約聖書だと言ってもいいかも知れません。パウロはコリントやローマやエフェソやテサロニケなどのローマ帝国内に生まれたキリスト教会の人々に手紙を送っていますが、そこには「初代の教会は皆素晴らしいものだった」とか、「あなたたちは本当に素晴らしい」というような賞賛ばかりがあるのではありません。教会の内部の混乱や醜さや争いについても包み隠すことなく触れられており、これを新約聖書に編集して後世の人々に伝えようとして教会もそれを良しとしたのです。何か問題があったことを不名誉なこととして、「こういうことは悪いことだから、後世に伝えるべきではない」と、したのではありませんでした。全く正反対です。

 初代教会の生き生きとした働き、その伝道のエネルギーに満ちた有様と、私たち日本の教会の低迷状態の違いを決定的にしているものがここに明らかになっています。つまり、イエスの弟子たちは愚かで悟りが鈍く、不信仰であったが、私たちは賢く、インテリで悟りと分別があり、敬虔で信仰深いということです。
 内村鑑三は「キリスト教問答」の中で次のように言っています。(内村鑑三「キリスト教問答」講談社学術文庫191頁以下,本文は文語調だが、説明のために日常の話し言葉にした)
「キリスト教の伝道は、一般に言われるような伝道ではありません。私は賢くなったが、あの人は愚かで無知だから、私は彼を教えて上げて無知な彼を賢くしてあげようと言うような高慢なものではありません。私は救われたけれど、あの人は堕落しているから、救ってあげようというような高慢な憐れみでもありません。
 キリスト教の伝道は第一に表明です。それは「あなたは、罪を悔い改めなさい」というのではなくて、『私は、この神様を信じて、こうなることができた。私はこのことをあなたに伝えたい』というものです。」
 キリスト教会最大の伝道者パウロ自身も最初自らイエス・キリストの弟子たちを迫害していたことを隠さずに何度も語っています。そして、自分の欠点や悩みを正直に告白しています。
 道徳的に完全で隙のない素晴らしい、非の打ち所のない人がクリスチャンではありません。そうではなくて、クリスチャンは自らの愚かさを認め、神に助けを求める者です。そして、神は、私たちが自らの愚かさと罪を認めて、赦しを願うとき、必ず私たちの願いを聞いて下さり、罪を清め、赦してくださるのです。この神の限りない赦しと大いなる清めの力によって、私たちは神と自分と人に対して誠実であり、正直であることができるのです。

20:25 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
20:26 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
20:27 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。

 ヤコブとヨハネの母が息子たちを連れて、イエス様に神の国でイエス様の次に偉い人として下さいとお願いしたことが他の弟子たちに知れると、彼らは、そのことで怒りました。なぜ、怒ったのでしょうか。それは彼らもイエス・キリストの本当の意味を知らず、そして、自分たちもできれば、イエス様のもとで自分の名を上げ権力を得たいと思っていたからです。ここに私たちの本当の姿が浮き彫りにされています。

 こうして、自分たちの愚かさを告白することができることは、普通ではあり得ません。そして、この普通にはあり得ないことが起こっているこの出来事は、復活が起こったということ、イエスの弟子たちがイエス・キリストの復活を体験したということを指し示している現象です。そして、彼らが、復活に確かに与れることを信じていたから起こっている現象です。

 私たちを真実から遠ざけ、私たちを苦しめているもの、それは、私たちの虚栄心です。「自分は正しい」という思い込みです。よく考えて下さい。
 「私はこんな情けない人間だ、生きる価値などない」と、思い込んで立ち上がれないでいる人がいます。この考えは正しいのでしょうか?私たちは、その人が引きこもりかなんかになっていると、「いや、そんなことはない」と言うことができます。しかし、この「私はこんな情けない人間だ、生きる価値などない」という考えは、「素晴らしい人は生きる価値がある」という物差しがあって、その物差しで、頑張って生きてきたということです。ところが、思うように生きられなくなってしまった、そうすると、それまで自分は他の人より優れているという思いで生きる価値があると思い、見下げていた価値観が自分に牙をむいているのです。

復活のイエスに出会った人々が体験したのは、私は素晴らしいから生きている意味があるとか、ないとかという考えを超越し粉砕してしまう出来事です。イエス・キリストが父と呼んだ神様は、死人をも復活させることができる神様だということを彼らは体験しました。この神こそが、全能の神であり、信じなければならない神であることを彼らは知らされたのです。私の人生の価値は、この神様を信じて、従って生きていくところにあると知ったのです。私が周りの人と見比べて、「私は価値があるとか、ない」というのではなく、こんな小さな愚かな者のために、神はイエス・キリストを十字架につけて、私に永遠の命への道を開いて下さった価値のために私は価値があるのです。だから、復活のイエス・キリストに出会った人々は、変えられました。イエス・キリストの十字架の死後、逃げ隠れしていた弟子たちが、恐れることなくイエス・キリストの福音を宣べ伝えるように変わったのです。
その変化は、ただ復活の主の力によるものでした。ですから、弟子たちは、この聖書にも書かれているように、自らの思い違いや過ち高慢を告白することができたのです。それは、赦しの共同体を意味します。みんな頑張っていて、素晴らしい人々が集まると、もっと素晴らしくということで、だんだん厳しく細かくなってくるのです。それがファリサイ派や律法学者の間違いです。
復活は、ただ一人素晴らしい方がいらっしゃれば、それで十分であることを明らかにしました。イエス・キリストの素晴らしさを讃えることができれば、それ以上のことはないということです。あなたがどんな悲しみや不幸の中にあってもイエス・キリストを讃える時、全ては、喜びとなり、恵みとなるというのが、私たちの信仰です。「すべての人よ、神を讃えよ」と神は命じておられます。それは、全ての人とあるのですから、悲しみの中にある人は、入っていないということではありません。喜びの中にある人だけが神を讃えることができるというのでもありません。
いついかなる時も神を讃えることができること、ここに復活を信じて生きる人生の素晴らしさがあります。

(2009年3月29日に増補)

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