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zoom RSS 2017年4月9日マタイ福音書21章1〜11節「十字架への道」

<<   作成日時 : 2017/04/10 07:55   >>

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 今日から受難週に入ります。来週の日曜日は、いよいよ主イエス・キリストの復活を記念する復活日、イースターです。今日の聖書の箇所は、イエス様がいよいよイスラエルの都、神の都であるエルサレムへ入城したときのことを伝えています。イエス様がエルサレムへいらしたことを群衆は歓喜して迎えます。ローマの支配下にあって苦しめられていた群衆は、この預言者イエスによってイスラエルが解放されることを望んだと考えられます。
 エルサレムは高地にあり、町の周りは城壁で囲まれています。さて、イエス様がこれからエルサレムへ入城しようとするとき、近くの村からろばの親子を連れてこさせ、それに乗って行かれました。
 弟子たちにろばの親子を連れてくるように命じますが、「主がお入用だ」と言えば、すぐに渡してくれると不思議なことをおっしゃっています。そしてイエス様がおっしゃったとおりにそれは起こりました。弟子たちに、それは明らかに前もって決められたことであり、不思議な力が働いていることを明らかにしています。
 預言の成就であったと聖書は証しています。これはゼカリヤ書9章9節の御言葉です。

9 娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。(ゼカリヤ9:9)

 預言の成就としてイエス様はエルサレムへろばに乗って入城されました。なぜろばの子に乗られたのでしょうか?それはゼカリヤ書の次の節、10節を見ると分かります。

10 わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。(ゼカリヤ9:10)

 ろばは、この軍馬と対比されています。つまり、イエス様は平和の王として争いと戦い、殺し合いに終止符を打つ方としてエルサレムに入城されたのです。
 もうシリアでは、6年に亘って深刻な内戦が続いています。先週、戦争状態にあるシリアで毒ガスが使われました。先週末、新しいアメリカの大統領は、毒ガスのような化学兵器を使ったのはシリア政府軍であるとして、政府軍の基地にミサイルを撃ち込みました。駆逐艦から発射されるトマホークミサイルの映像がテレビに流れていました。私たちの日本の隣国でも深刻な予断を許さない事態が起こっています。この緊張の中で私たちは今年もイースターを祝おうとしています。イエス様は平和の王としてこの世に来られたのに、世界はまるでそれが無意味なことであったかのように争い、殺し合っています。
 イエス様は、平和の王としてろばにのってエルサレムへ入城されました。イスラエルの国から戦車がなくなり、エルサレムから軍馬が絶たれる徴として、戦いの弓が絶たれ、諸国に平和が告げられる徴としてイエス様はエルサレムへ入城されました。
 イエス様は、この後、捕らえられて十字架につけられて殺されてしまいます。預言は嘘であったのでしょうか?そうではありません。イエス様は十字架で殺されて三日目に復活されます。預言は成就したのです。
 イエス・キリストの十字架の死と復活は、私たちに武力の無力さと空しさを宣言しています。そして、神の力の勝利を宣言しています。
 この争いと戦争の絶えないこの世でこそ、そして現代もなお、イエス・キリストの勝利は変わりません。私たちは今なお戦いの殺し合いの続くこの世に生きています。そして、私たち自身がこの戦争と殺人に手を貸してしまっています。それは、私たちの敗北を意味しており、罪の中に私たちが今なお生きていることを明らかにしています。
 勝利は、神にあり、復活のイエス・キリストにあります。私たちがどんなに、争い合い、殺し合ってもそれは、何の意味もないことをイエス・キリストの勝利は明らかにしています。すべては、あの時、決着したのです。エルサレムにろばに乗ってイエス様が来られたあの時に、武力による勝利が無意味であることが決着したのです。
 イエス・キリストの十字架と復活が起こり、神の勝利が宣言されました。だからと言って、戦争や殺し合いがなくなったかというと、そうではありません。時代の進歩と共に、戦争はより悲惨で大量の人々が一度に殺されてしまうようになっています。武力による勝利が無意味であると宣言されても、相変わらず殺し合っています。神は無力なのでしょうか?
新興宗教などの似非宗教は、よくこの点からキリスト教を批判します。キリスト教を信じる人々がお互いに争っているし、この世の中、キリスト教によってよくなっていないというような批判をして、キリスト教ではダメなんだというレッテルを貼って、おもむろに新しい自分たちの宗教ならば、世界はよくなると言って、何も知らない人々を騙しています。それらの新しい宗教は、国家の土台となるほど多くの人がいませんから、戦争をしたりすることはありません。要するにまだその立場に立ったことがないので、当然です。しかし、そのまだ戦争をするような立場に立ったことがないことを、自分たちの宗教を信じれば世界中から戦争がなくなるというように宣伝しています。しかし、オウム真理教などが示すように、多少とも大きくなると、国家レベルまでの大きさには全然なっていないにも関わらず、武装したり、毒ガスをまいて無差別殺人を行ったりしています。あるいは、神の罰や祟りなどで何も知らない人を脅して、お金を巻き上げています。それらの宗教は、宗教そのものが強盗組織であり窃盗団、詐欺集団です。彼らは、イエス・キリストという真理を否定する集団ですから、嘘を彼らは土台としており、詐欺集団にならざるを得ません。自らをイエス・キリストの再来とか、イエス・キリスト以上であるというものは、全て似非宗教であり、カルトです。これに例外はありません。
 イエス・キリストが預言の成就として平和の王としてろばに乗ってやってきても、世界から軍馬はなくならず、戦争の悲惨は留まるところを知りません。イエス様は平和の王ではなかったのでしょうか?そうではありません。神様が無力なのではなく、人が愚かであり、神を信じない不信仰なものであることをこの世の戦争などの悲惨は示しています。そして、そのような愚かでどうしようもない人間を愛して悔い改めの時を待ち続けている神様の信じられない忍耐と愛が、そこには示されているのです。敵対する者を愛されている神様の愛が示されているのです。
 このことは、私たちの日常生活とどのような関係があるのでしょうか?
それは親を愛し、妻を愛し、夫を愛しなさいということです。たとえ相手が、「赦しがたい」、「自分のことを何だと思っているのだ」という人であっても愛しなさいということです。「もう嫌だ」と思うそのときに、それでも愛をもって見捨てないということです。愛とはそのようなものであり、神様が私たちを愛して下さっている愛は、どうしようもない私たちをどんなことがあっても決して見捨てないからです。
 問題は、私たちが神を問うて、「なんでこんなことが、この世の中にあるのですか?」ではありません。神が私たちを問うているのです。神は、そのたった一人の御子を十字架につけて、私たちが永遠に生きるための犠牲としました。その愛に、私たちはどう報いているのか?その愛の深さをそもそも知っているのか?分かっているのか?ということです。
 相手は「自分のことを全然理解しようとしない」と、私たちは怒るかも知れません。それでは、私たちは神様の御心を理解しようとしているかと自らを問わねばなりません。神様の御心は、聖書に示されています。聖書を私たちは読んでいるでしょうか?神様の御心を求めつつ聖書を読み、祈り、示された聖書の言葉を信じて行おうとしているでしょうか?皆さんが購入して下さった「ローズンゲン」「日々の聖句」にも旧新約の聖書の言葉があって、その下に、聖書の箇所が二か所挙げられています。明日の4月10日ですと、最初にマタイ26章6〜13節が読む箇所です。これは教会歴に従った箇所です。次にルカ22章63〜71節があります。これは聖書通読のためのもので、4年で新約聖書全巻を通読し、8年で旧約聖書の主な箇所を通読することができます。また「信徒の友」をお持ちの方も、巻末に毎日、聖書の箇所が示されており、聖書を通読するようになっています。どうぞ覚えて実践をなさってください。(これには誰かパートナーや小グループを作って取り組むことがいい)。
 いいですか、神様はあなたを愛して下さっています。それが私たちの信仰です。このことは、本当に大切なことです。それは、何を意味するのかを、お考えになったことがあるでしょうか?神は私を愛している。これは、何を意味するかというと、私は人に愛を求める必要がないということです。神が私を愛して下さっている恵みに感謝して、神が私を愛して下さっているように隣人を私も愛するということです。私たちの人生の失敗を振り返って見て下さい。その根底には必ず、自分が愛されたいという思いがあったはずです。「そんなことはない。愛したのにひどい目にあった」とおっしゃる方があるかもしれません。ひどい目にあったから、愛さないというのは、それは自分が愛されるために愛していただけのことです。神の愛に押し出されて愛したのであるならば、ひどい仕打ちを受けた時、主イエス・キリストの苦難を思うことができるはずですし、その体験はむしろ私たちに恵みと平安と豊かさをもたらします。
 先日、幹事会の皆さんから、水戸中央教会の活動方針などを出して下さいと言われました。それで今回の総会でも皆さんにお諮りすることになりますが、本来的にキリスト教会の活動は、聖書を読むこと祈ることと行うこと以外にありません。小グループだとか色々な教会が活動的に発展してゆくためのプログラムが数え切れないほどあります。しかし、そのすべては、この聖書を読むこと祈ること御言葉を行うことに集約されます。
 人間は神によって創造されました。私たちの人生の目的は、聖書を読み祈り、御言葉を行うことにあるのです。そのすべては神への感謝と賛美です。それが、戦争があろうが、地震や津波に襲われようが変わらない私たちの人生の意味です。
 およそ2000年近く前の今日、イエス様はエルサレムへ入城されました。そして今日今、皆さんの心の中心にイエス様がお入りになりますように。どうぞ心の扉を開けて主イエス・キリストを皆さんの心の中にお迎えください。そしてその今日が、皆さんの勝利の日、希望の日、永遠の喜びの日となりますように。

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