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zoom RSS 詩編118篇19〜29節 聖書を学ぶ会 2017年4月6日

<<   作成日時 : 2017/04/28 07:45   >>

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19 正義の城門を開け/わたしは入って主に感謝しよう。
 神を信じるということと、正義とは非常に密接な関係にあることが示されています。それは、私たちのいわゆる苦しい時の神頼みとは全く違っています。なにか人生の危機に直面して神様に祈るとき、私たちは正義を問題としていません。先日、フィギアスケートの羽生さんが逆転優勝をされました。その帰国を迎えるご婦人が、羽生さんの優勝を願って、お百度参りをしたということをおっしゃっていました。応援する一生懸命な気持ちで、それはそれで素晴らしいと思いますが、そこでは、正義は問題となっていません。学校の入学試験などで、試験に受かりますようにという祈りは、誰もがしたことがあるはずです。私もありますから、よく分かりますが、ろくすっぽ勉強していないのに、「神様、どうか○○大学に受かりますように」とか祈る訳です。あんなに勉強してないのに、もし受かったら奇跡、神様の助けだと思える状況で、祈る訳ですから、本当に受かったら、それはちゃんと勉強した人が入学するという正義を自ら否定していることになります。
 ただ試験などでは、ほんの一点の差で、受かったり、受からなかったりしますから、その一点の違いがその学生たちの学力の差になるかというとそうではないのは明らかです。だから、神頼みになるのも分かる気がすることはします。しかし、私たちはどこの学校へ行くかということは大きな問題であり関心事ですけれども、正義を行っているかということは、実は全く問題としていません。
 ですから、神様を信じるということは、誠実に努力するということと一体です。
自分が何か、人生の困難に直面して、神様にお祈りするということがあります。これもやはり正義を重んじている訳ではありません。自分の考え方や日頃の行いから、当然の結果だろうということも多々あります。しかし、そのことが起こった当人である私は、当然の結果だと受け入れることができません。唯一真の神様に出会う時、私たちは、完全に自分が間違っていたということを示されます。根本的に自分自身が間違っていたことが示されます。それが悔い改めの瞬間です。他人を批判し、神を批判していた自分自身の愚かさをほんの少し垣間見ることができます。そのほんの少し垣間見ることができることが、私たちにとっては、ものすごいことです。私たちの人生を変えてしまう、一大事件です。
 この一大事件は、悔い改めの涙をもたらします。そして同時にそれは神様の恵みであり、私たちは神様に感謝を捧げます。感謝の源は、この悔い改めにあるからです。なぜ感謝が湧き起るかというと、私たちが経験した嫌なことも悲しいことも全ては神のご計画の内にあって、神様が私を守り導いて下さって来た証明であったことが分かるからです。すべては、この悔い改めに至り、神に出会うために通らなければならないプロセスであったことが明らかになるからです。そして神様がその細い細い道を通らせて下さったことが明らかになるからです。神様は、私たちが「どこに神様はいるのか!」と泣き叫んでいた時も共にいて私を生かして下さっていた方であり、神様だけが忠実に私を伴って下さっていたことを知るからです。
 正義の門とは、私は根本的に間違っていたということを認める時にくぐることができる門です。世界で一番の義人と言われたヨブは、どんな目にあっても神様を信じる、信仰に留まり続けますが、全てを失い、自らも皮膚病に侵されて、神に対して抗議をします。神は苦難のただ中にあるヨブに語りかけられます。ヨブはひれ伏し、悔い改めます。神は、ヨブを褒めます。そして、神に対して抗議をするヨブをいさめていた友人たちに怒ります。ヨブは自らの過ちを認めて悔い改めるのですから、ヨブをいさめていた友人たちは、神様から「お前たちのいうとおりだ。ありがとう。」と褒められてしかるべきだと私たちは思いますが、神様はこれを叱られます。それは、神様がいかに慈愛に満ちている方であるかが言われているのではないでしょうか?
 苦難の中にあるヨブを批判したり教えたりするのではなくて、彼らは友人として、神にヨブのために祈ることができたのではないでしょうか。また苦難というものは、人間は誰も代わりに負うと言うことができない性質のものでもあります。
 神はヨブが本当に律法を大切にして神様に忠実に生きていることをご存知でした。そして、試みとして苦難にヨブが襲われることを良しとされました。それは、神様の気まぐれやわがまま、自分勝手ではありません。そうではなくて、ヨブをとおして神様の御業が示されたのです。そして、この御業を通して、私たちは確かに知っています。苦難に遭ったからと言ってあるいは苦難の中に打ち捨てられているからと言って、神を信じることは空しいことではなく、正義を行うことは空しいことではないということを私たちは知っているのですし、そのことが、ヨブ記に旧約聖書に宣言されているのです。
 正義をもって私たちは神に訴えることができるのです。アブラハムは、ソドムとゴモラの町が滅ぼされるとき、神の使いに対して、「神は正しい人も正しくない人々と共に滅ぼしてしまうのですか?」と抗議しています。またモーセも不従順なイスラエルの民に対して怒る神に対して、「あなたがこの民を荒野で滅ぼされてしまっては、他の民は、神を侮るでしょう」と忠告しています。これは神様が全能なる方であることと矛盾するように思われます。
 しかし、そうでしょうか?このように、人間が神に語りかけることができ、神様はそれに答えて下さるということが全能なる神の真の姿です。
 それは、私たち人間の命の尊さと人生の意味の重大さを語っています。それは、人間は神と語り合うことができる存在であり、この人生の中で、私たちは神と語り合うことができるという特権が与えられているということです。

20 これは主の城門/主に従う人々はここを入る。
 正義を求め、正義を行うように生きるということ、それは、神に従うということであり、それは神と語り合うことができる特権が与えられているということです。神と語ることができる人生、それこそが人間の人生の本来の姿であり、人生を最高に豊かにすることであり、それこそが人間の生きる意味です。しかし、私たちはいかにこの神と語り合うということ、祈りをおろそかにしているでしょうか?私たちの日々の行い行動が神様の御言葉に基づいているでしょうか?

21 わたしはあなたに感謝をささげる/あなたは答え、救いを与えてくださった。
 神の言葉に従って生きる時、私たちは神様が答えて下さり、平安と恵みとを与えて下さることを知っています。神の言葉を行うことができる時、私たちは感謝を捧げます。往々にして、私たちは少しばかり善いことを行うと高慢になり、自分が全てをやったかのように思い込みますが、信仰によって、「ふつつかなしもべです。なすべきことをしたに過ぎません」とイエス様に教えられて、考え思うことができます。それも本当に感謝なことではないでしょうか。

22 家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。
 神の国の建設のために働く人々、律法を守り、真の神様を礼拝している人々によって、捨てられた人が、信仰の土台となった。これはイエス・キリストのことを予言している箇所として有名です。イエス様は、律法学者やファリサイ派の人々から憎まれて、十字架につけられて殺されますが、三日目に復活されて、真の神を信じる人々の信仰の中心になられました。このかたこそ、生ける神の子、キリストです。

23 これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと。
 私たちの救いは神の御業です。私がよい人で、沢山の良いことをしたから救われるのではありません。神様の御業によって、私たちは救われるのです。人と自分とを見比べて、私が優っていると喜ぶことは救いではありません。劣っていると思って落ち込むことは、救いから漏れていることではありません。

24 今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。
 主の御業を喜び、今日を喜び祝い、喜び踊ることが大切です。なぜならば、私たちは生かされているからであり、主の御業が私たちのために行われているからです。

25 どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。
 救いを下さるのは主なる神であり、栄を下さるのも主なる神様です。しかし、いかに私たちは、自らの虚栄心が満たされるか満たされないかによって、あたかも自分が救われていたり救われていないように思い込んでいる事でしょう。私の栄がいかにこの世の地位や名誉と同一視されていることでしょうか。

26 祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。

主の御名によって来る人を私たちは侮辱し軽んじ侮ります。

27 主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。祭壇の角のところまで/祭りのいけにえを綱でひいて行け。
私たちに光を与えてくれるのはこの世の富や名誉だと私たちは思い込んでいます。ですから、教会にもなんか徳があるのでないと来ないということが起こります。

28 あなたはわたしの神、あなたに感謝をささげる。わたしの神よ、あなたをあがめる。
29 恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。

 礼拝は私たちが御名を讃え、感謝をする場です。私たちの日々の生活の中に神はおられ、神は私たちを御言葉をもって導き、生かして下さっているからです。恵み深い主に感謝し、慈しみはとこしえにと神を讃えるのが、人間の本来の人生であり、命が与えられて生かされている者の意味なのです。

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