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zoom RSS 2017年5月7日 ヨハネによる福音書11章17〜27節

<<   作成日時 : 2017/05/09 07:45   >>

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17 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。 18 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。 19 マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。 20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。 21 マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。 22 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」 23 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、 24 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。 25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 27 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

 イエス・キリストは、十字架につけられて殺され、三日目に復活されて、その後50日間弟子たちに姿を現された後、天に昇られました。これを事実として信じているのがクリスチャンです。そして、イエス・キリストを信じる私たちは、終わりの日に復活し、神の国に永遠に生きることができるというのがキリスト教信仰です。
 それは、馬鹿げたことであり、誰もがそんなことが起きるわけがないでしょうと、イエス・キリストを知らない人々は思い、考えますし、私たちイエス・キリストを信じていると言っているクリスチャン自身も本当に信じているのかと、問われると、自信のないところです。しかし、私たちイエス・キリストを信じる者たちは、このイエス・キリストの復活を本当に信じられるようになれば、なるほど、平安で豊かな人生がこの世において与えられることを知っています。それは神様の恵みであり、真理です。
 私たちが復活を信じること、それは私たちが、この世の虚栄心から解放されることを意味します。自分と他人とを無意識のうちに見比べて、自分が優れていると安心したり、自分が劣っていると思うと落ち込んだりしている人生からの解放です。もちろん、この虚栄心からの解放は、本当に難しいことであることを私たちは知っています。しかし、私たちの信仰の歩みは、それぞれがそれぞれのあり方で神様によって導かれていますから、信仰の大きい、小さいを比べる必要はありません。それは無意味なことであり、有害です。ですから、私たちは、復活を信じることが大切です。

 本日の説教個所であるヨハネ福音書11章は、イエス様が、十字架にかけられて復活される前に起こった出来事です。イエス様をとても尊敬して信じていたマルタとマリヤという姉妹の弟であるラザロが、病になります。マルタとマリヤは、使いをイエス様に送って、ラザロの病をいやしに来てくださいとお願いしますが、イエス様の到着は、他にも沢山押し寄せてくる癒していただきたい群衆などに阻まれて遅れます。そして、ラザロは死に、墓に葬られて4日も経ってからようやく、イエス様が到着しました。

マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。 22 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」

「すべては手遅れで、ラザロは死んでしまいました。神様が天国にラザロを迎えて下さいますように」と、いうような意味と理解されます。

23 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、 24 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。 25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 27 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

 この後、イエス様は、ラザロの葬られている墓に行き、ラザロを復活させたことが報告されています。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と、イエス様はおっしゃっていますが、確かにこの後、ラザロは復活しますが、今、ラザロは生きている訳ではありませんし、いつ再び死んだのかも分からない状態で、本当にラザロという人がいたのかもわかりません。ですから、「こんなのおとぎ話だろう。」「伝説だろう」と言うことは簡単です。しかし、それは、なにも科学文明の発達した現代人が冷静に知的に考えることができるようになったから言えることではなく、昔から「愚かなこと」「バカバカしいこと」でした。アテネで、パウロが、イエス・キリストについて話をしたときに、それまで興味をもって聞いていたアテネの人々は、「死人の復活」の話を聞いて、あきれて帰ってしまったと聖書自身が使徒言行録で証言しています。

 社会的現象としてのキリスト教は、この死人の復活のゆえに、その人が生かされている世界で望みを失った人々、その社会の価値観からは、生きる意味がないとされた人々の心に働きかけ、生きてゆく希望を与え続けてきました。またその社会の価値によって、いわゆる虚栄心が満たされ、虚栄心によって、自分は生きている意味があると思い込んでいる人々には見向きもされず、迫害をキリスト教は受けてきました。

 「宗教は弱い人が信じるものだ」という批判は、よく言われますが、それはキリスト教国でも一般に言われたりします。キリスト教国でも自発的に積極的にイエス・キリストを信じている人々はそう多くはないからです。
実際にクリスチャンと知り合いになると、キリスト教は弱い人が信じるものだとは、とても思えなくなりますが、「宗教は弱い人が信じるものだ」という表現の正当性は理解することができます。そして、そのことをむしろ私たちは喜ぶべきであると私は思います。
 それはつまり「宗教は弱い人が信じるものだ」という価値観は、その「弱い人」を救うことができないこと、救おうとしていないことを自ら表明しているからです。その弱い人でも生きて行っていいのだというメッセージをこの言葉を発する人々、社会は、持っていないということを意味しているからです。
 「人間、追い込まれると、そんなバカなことまで信じるようになるのか?」という具体例としてキリスト教を理解することもできるでしょう。しかし、それでもなお、そのように追い込まれた人に生きる力を与えていること、生かしているということは、素晴らしいことだと私たちは考えます。さもなければ、イエス・キリストに出会うことがなければ、とうの昔に自殺でもしていたような人々に、「生きていていいのだ」という肯定のメッセージを送り続けてきたのが本来のキリスト教会です。

 イエス・キリストの復活を信じることができる精神環境は、冷静に自分の人生の行く先を見据えることができるという知性です。人間の人生は、死をもって終わり、自分のなしたことは何も残らないし、なにも持って行くことができないという現実を見据えること、これに打ちのめされていることです。この闇と絶望の中で、復活を信じて生きている人々の存在が視野に入ります。そして、この復活を信じて生きている人々とのつながりによって、私たちは、この世の支配ではなく、神の支配のもとへと徐々に移されていきます。
 復活を信じるということは、自らの死を見つめることができるということです。死をもって人生が終わってしまうということですと、私たちは死から目を背けようとします。死は、私たちを、この世の価値観から断絶するものです。人間は死ぬとみな神様になるというような考えは、まやかしであり、ごまかしであるということを私たちは聖書を通じて知っています。

 しかし、復活を信じるということは、非常にむつかしいことであり、実際、自分で信じることは不可能であるということを私たちクリスチャンは知っています。「復活を信じると告白して、クリスチャンになっているのに、なぜ復活を信じるのはむつかしい、不可能であるというのか?」と、思われるかもしれませんが、それは真実です。復活を信じて、イエス・キリストの言葉に従って生きていくとき、私たちは、自分をより謙虚に見ることができ、信じると言いながら、信じていない自分に気が付くようになるからです。
 ですから、私たちの願いと望みは、イエス・キリストの復活を本当に信じることができる信仰を与えてくださいと祈ることです。
「願い求めなさい、そうすれば与えられるであろう」と、イエス様は約束してくださいました。何を願い求めるかが、問われています。「神の国と義とをまず求めなさい。そうすれば、すべては添えて与えられる」ともイエス様はおっしゃいました。

 フランスの昔話に「三つの願い」というのがあります。これはヨーロッパのあちこちにいろいろなバリエーションでよく人口に膾炙しているものです。
(インターネットより引用)
むかしむかし、町のはずれに、主人とおかみさんだけでやっている、小さな料理屋がありました。
 この夫婦は、とくべつに金持ちではありませんが、毎日の食べるものには不自由せず、健康にもめぐまれて、幸せにくらしていました。
 ある日の夕方のこと、金ピカの服を着た、伯爵(はくしゃく)と伯爵夫人(はくしゃくふじん)が、金の馬車(ばしゃ)にのって、料理屋のまえを通りました。
 それを見て、おかみさんがいいました。
「あの人たちみたいに、わたしも一度でいいから、すてきなボウシをかぶり、耳かざりをして、馬車にのってみたいものだわ」
 すると、主人もいいました。
「そうだな。何をするのにも、めしつかいに手つだってもらい、いばっていられたら、いうことはないさ」
 このおかみさんはスタイルがよく、目のパッチリとした色白の美しい人でした。
「ねえ、おまえさん。わたしが真珠(しんじゅ)の耳かざりをして、なぜいけないのさ」
「そりゃ、いけないっていうことはないさ。そんなこというんなら、おれだって毎日、おいしい酒をあびるほど飲んで、楽しくくらしたいさ」
 こんなことをいっているうちに、二人には自分たちの生活が、急にみすぼらしく見えてきたのです。
 家のまえを通る貴族(きぞく)を見るたびに、うらやましい気持ちがおこり、とたんに自分たちには、苦労ばかりしかないように思われてきたのです。
 おかみさんは、ため息をつきながらつぶやきました。
「こういう時に天使(仙女(せんにょ)がいてくれたらねえ。仙女が魔法のつえをひとふりすれば、たちまちねがいがかなうっていうのはどうだい?」
 こういったとたん、家の中にサッと光のようなものがさしこんだのです。
 二人はおどろいて、ふりかえってみたのですが、だれもいません。
 しかし、家の中には、たしかに人の気配を感じるのでした。
「なんだか、気味が悪いね」
 二人が顔を見あわせていると、そこへスーッと、女の人があらわれたのです。
「あなたたちの話は、みんな聞きました。もう、ふへいをいう必要はありません。ねがいごとを三つ、口でとなえなさい。注意をしておきますが、三つだけですよ」
 仙女はそれだけいうと、スーッと消えました。
 主人とおかみさんは、しばらくポカンと、口をあけたままでしたが、やがて主人が、ハッとしていいました。
「おいおい、おまえ、聞いたかい!」
「ええ、たしかに聞きました。三つだけ、ねがいがかなうって」
 二人はおどろいていましたが、だんだんに、うれしさがこみあげてきました。
「えへヘへへ。ねがいごとは三つだけか。そうだな。一番はやっぱり、長生きできることだな」
「おまえさん、長生きしたって、はたらくばかりじゃつまらないよ。なんといっても、金持ちになるこったね」
「それもそうだ。大金持ちになりゃ、ねがいごとはなんでもかなうからな」
 二人は、あれこれ考えました。
「ねえ、おまえさん、考えてたってはじまらないさ。急ぐことはないよ。ひと晩ねれば、いい知恵(ちえ)もうかぶだろうよ」
 こうして二人は、いつものように仕事にとりかかりました。
 しかしおかみさんは、台所仕事をしていても、三つのねがいごとばかりが気にかかって、仕事がすすみません。
 主人のほうも、ブドウ酒やごちそうが目のまえにちらついて、仕事がすすみません。
 長い一日がおわって、夜になり、二人はだんろのそばに腰をおろしました。
 だんろの火はごうごうもえ、あやしい光をなげかけていました。
 おかみさんは、だんろの赤い火につられて、思わずさけびました。
「ああ、なんて美しい火だろう。この火で肉をあぶりやきしたら、きっとおいしいだろうね。今夜はひとつ、一メートルもあるソーセージでも食べてみたいもんだわ」
 おかみさんがそういいおわったとたん、ねがいごとがかなって、大きなソーセージがバタンと、天井からおちてきました。
 すると、主人がどなりました。
「このまぬけ! おまえの食いしんぼうのおかげで、だいじなねがいごとを使ってしまった。こんなもの、おまえの鼻にでもぶらさげておけ!」
 主人がいいおわるかおわらないうちに、ソーセージはおかみさんの鼻にくっついてしまいました。
 あわててひっぱってみましたが、どうしてもとれません。
 きれいだったおかみさんの顔は、長いソーセージがぶらさがって、見られたものではありません。
 おかみさんは、大声でなき出しました。
 それを見て、主人はいいました。
「おまえのおかげで、だいじなねがいごとをふたつもむだにしてしまった。さいごはやっぱり、大金持ちにしてほしいとおねがいしようじゃないか」
 おかみさんはなきじゃくりながら、足をドタバタさせました。
「おだまり! もうたくさんだ。さいごのねがいは、たったひとつ。どうぞ、このソーセージが鼻からはなれますように」
 そのとたん、ソーセージは鼻からはなれ、おかみさんはもとの美しい顔にもどりました。
 それから二人は、二度と不平などいわず、今のくらしをたいせつにしたということです。

 虚栄心と欲につられて、人間は人生を台無しにしてしまうことをこの説話は伝えています。「神の国と義を求めなさい」とイエス・キリストは教えてくださいました。イエス・キリストの復活を信じられるように」と求めることは、神の国と義を求めることです。なぜならば、キリストの復活、そしてまた、今日の聖書の箇所であるラザロをイエス様がよみがえらせたことを信じることは、神の力が、この世に働いていることを認めることであり、神の国と義の存在を自分の心の中に許容することだからです。
 そして、イエス・キリストの復活と永遠の命を信じることは虚栄心からの決別を意味していることを覚えたいと願います。

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