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zoom RSS 2017年5月14日 ヨハネ福音書14章1-11節

<<   作成日時 : 2017/05/14 22:41   >>

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1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。 2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。 3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。 4 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」

 イエス様が捕らえられて十字架にかけられる直前の時、最後の晩餐の時に、このイエス様の言葉は言われました。ヨハネ福音書のいわゆる決別説教の一部です。イエス様は、ご自分のこの世での最後の時が近づいていることをご存知でした。自分の最後の時を知っているということは、どういうことでしょうか?それは、イエス様は、ご自身に与えられた生涯の目的を知っていたということです。何のために生きているのかということをイエス様はご存じであり、そのために生きられた方だということです。
 神を信じ、「わたしをも信じなさい」とおっしゃるイエス様を信じるということは、私たちの人生に目的が与えられるということです。つまり、私たちは神を信じるために生きているということです。この神を信じることが、私たちの人生の目的であるということが、私たちには、なかなか理解されません。そして、それを理解していないと意識されることも非常に稀です。なぜならば、私たちは自分の思いを実現するために神を信じようとしているからです。つまり手段と目的が逆転しているのです。本当は、私たちの人生は、この生きることによって、神を信じることであるのに、神を信じることは、自分の人生の目的や願いを実現するための手段だと思っているからです。
 イエス様は、しかし、おっしゃっています。「神の国と義を求めなさい。そうすれば、全ては添えて与えられる。」私たちが自分の人生の目的や願いだと思っているものは、神の国と義を求めることによって、添えて与えられるものなのです。

 「わたしの父の家には住むところがたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くといったであろうか。」と、イエス様はおっしゃっています。住むべきところは、父の家であることが、言われていますが、私たちは、父の家に住むことではなくて、この地上でいかに楽しく、少しでも長く生きることができるかどうかが、私たちの願いであり目的となっています。そのために神様に祈っています。ですから、イエス様が、十字架と復活の御業によって、父なる神様への道を開いて下さっても、私たちはその道を行こうとはしません。それが道だとは認識していないからです。

 神を信じることが、私たちの人生の目的であるということは、何を意味しているのでしょうか?それは、神が私たちを創造されたということ、神によって私たちは創造され、私たちの人生は、神の創造の御業とその偉大さを表す手段であるということです。神様の手段と私たちがされるというと、なにか自分の人権が無視されたりしているように思うでしょうか?しかし、それはそうではありません。例えば、天皇陛下が、私を用いて何かをなさるということになったら、誰もが喜んでするでしょう。「どうぞお使いください」となるのが、普通です。

5 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」

 トマスが、「分からない」と言っていることは、本当に聖書が、私たちのために与えられた神の言葉であるということを示しています。なぜならば、このトマスの言葉によって、私たちの存在が聖書の中で認められているからです。「分からない私たち」がイエスの弟子であることができることが示されているからです。トマスは、イエスに「わかりません。どうしてですか。」と質問ができるほど、素晴らしい信仰の持ち主であったというべきです。決して、「イエスの弟子たちの中でトマスは本当に疑り深くて、信じなかったのだなぁ」と言うことはできません。私たちの現実社会の中でも、「なんでも神様の言う通り素直に信じられます」というのは、割合、なにも分かっていないことが多いのです。
 確か禅宗などでも言うかと記憶するのですが、疑念、疑いを持つことは、悟りの第一歩です。
 要するに疑うということは、ある意味において、知性の働く余裕があるということであり、自分なりに考えて、信仰を自分のものとして生きようとする姿勢があることを意味しています。

6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。 7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

 素晴らしいことだと思われないでしょうか?イエス様はトマスの問いに対してお答えになります。本当に忍耐の方であり、愛の方であったことが、ここにも表れています。
 イエス様を知っていることは、イエス様の父なる神様を知っていることだと言われています。つまり、私たちはイエス様に従ってゆけば、それでいいのだということです。「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と告白し、礼拝するのがキリスト教です。イエス様の言葉に聞いて、そのイエス様のお言葉に従って生きていくのが、キリスト教です。ですから、キリスト教会では、イエス様の言葉がかかれている聖書が朗読されます。そして、今、私がしている説教は、私たちが現代において日常生活の中で、どのようにイエス様の言葉を聞いて理解すべきか、そして、どのように考え生きてゆくべきかを示そうとしているのです。それは、つまりイエス・キリストを示すということです。

8 フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、

 フィリポが質問して下さったこと、そして、その質問がここに書き留められて伝えられていることに感謝したいと願います。なぜならば、この質問がなされなかったら、私たちはフィリポのように思うことが、間違いであることを知らなかったであろうからです。現実に、「主よ、わたしたちに御父をお示しください」というこのフィリポの質問の立場に立っているキリスト教的異端と言われる宗教グループが、存在します。エホバの証人やセブンスデイ・アドベンティストなどがそれです。彼らは、イエス・キリストだけに従ってゆくのではなくて、イエス・キリストをこの世に遣わした父の方が偉大なのだから、そのより偉大な父に従うことが大切だと考えています。ですから、旧約聖書の律法の一部を持ち出して、それを大切にしたりしています。

9 イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。 10 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。 11 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。

 イエス様に従い、イエス様を神として信じるのがキリスト教であることが言われています。キリスト教というよりも、それが私たちの生き方であり、生きる道だと言われています。イエス様がこの世に来てくださったのは、私たち人間に、御父がいらっしゃることを示すためでした。そして、イエス様は御父をその生涯を通じて示し続けて下さったのです。しかし、イエス様の最も身近にいて、イエス様のなさることすべてを見て、体験することのできたフィリポですら、このことが分かりませんでした。それはフィリポが愚かだったからだと私たちはフィリポを見下すことはできません。そうではなくて、「フィリポですら、分からなかったのだから、私にはなおさらだ」と謙虚に自分を振り返り、フィリポと同じように考えている自分を発見することが信仰なのです。
 ですから、イエス・キリストを信じ、従う人々の群れは、常に少数者です。もちろん、爆発的に増えることもありますが、基本的には、それは少数の人々の深い信仰的営みが前提とされています。ですから、急激に増えているような新興宗教と私たちの教会を比べる必要はありません。そうではなくて、信じている私たち一人一人が神様を誠実に証してゆくことが大切です。
 その誠実な証というのが、トマスやフィリポによって、ここになされています。神様に対して、間違った信仰を持っていて、その間違いを神様が正して下さったという証です。自分の間違いや誤りを人々に伝えることは、なかなかできることではありません。それは、私たちが高慢で、自分に間違いや誤りなどないとおもっているからです。「謝るべきは、彼、彼女であり、わたしではない」と思っているからです。

 フィリポが、イエス様とずっと一緒にいたのに、父なる神をイエス様を通して悟らなかったのはなぜでしょうか?それは、イエス様の弟子であることによって、彼は人々から認められることを願っていたということも一つの理由でしょう。
 しかし、より大切なことは、このフィリポの過ちをイエス様が指摘して下さり、しかも、イエス様はフィリポの悪い点を数え上げるのではなくて、ただ、真理を示して下さったということを私たちは素晴らしいこととして神を賛美し、感謝を捧げるべきでありましょう。イエス様に教えていただかなければ、私たちは自分でその誤りを悟ることができなかったということです。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。 7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

 この週もまた、主イエス・キリストに従うことを新たに覚えたいと願います。


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