水戸中央教会 牧師室

アクセスカウンタ

zoom RSS 2017年6月4日 使徒2章1〜11節(2013年5月19日増補)

<<   作成日時 : 2017/06/04 21:29   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 イエス・キリストの十字架の死と復活そして、その方が天に昇られるという不思議な体験の後、復活から50日目にペンテコステの出来事は起こりました。

 みんながひとつのところに集まって、祈っていると、激しい風の吹くような音が聞こえ、一同は聖霊に満たされて、様々な国の言葉で、偉大な神の御業を語りだしたという、このことは、私たちにとっては、さらに信じられない出来事です。どのようにして、それは起こったのだろうと考えますが、それは、あまり意味がありません。
 基本的にこの出来事は、イエス様が本当に天に昇られて、約束通り、弟子たちに聖霊をくださったという御言葉の証明です。そして、今、私たちが、2000年近くの時を経て、イエス・キリストを信じているという事実の根拠であり、根源です。つまり、キリスト教会の根源、その基礎は、霊的なものであるということをこの出来事は証明しています。そしてまた、福音伝道は、霊的な力によって始められたということです。誰かが、思いつき、考えついて、イエス・キリストの福音を世界中に広めようとしたのではなく、まず神様がそのお力によって、様々な言葉で、弟子たちを語らせて、この福音が全世界に向けられたものであることを明瞭にされました。というか、神ご自身が、霊によって、お語りになったのです。この時、日本語も既に語られていたのだろうか?と問うことは、その根拠を検討するとちょっと面白いかもしれませんが、あまり本質的なことでないのは明瞭です。そこに日本人がいたら、確かに日本語でも語られていたでしょう。そして、今、福音は日本語でも確かに語られているということは、ペンテコステの出来事の真実の証明です。

 確認しなければならないことは、福音を伝えるということは、神の御業に参与することであり、聖霊の働きであるということです。それ、つまり福音を伝えるということは、私たち一人一人の思いや欲求、考えではありません。それは、私たち自身においても確認されます。なぜならば、人の思いや考えは、いつも福音を信じない人々を裁き、自分を正当化することばかりを求めるからです。決して、福音を伝えようとはしません。福音を伝えなくても良い、理由を私たちの人間的な思いは常に探します。
あらゆる国の言葉で、神様は弟子たちが、ご自身の御業を語ることをよしとされました。それは、神様のご決断であり、ここには神様ご自身のすべての国の人々への慈愛が示されています。天と地とすべてを創造された真の神様であるがゆえに、ペンテコステの出来事は起こったのです。それは、神様がお選びになったイスラエルの民だけではなく、すべての人々のために神の恵みの御業は起こったということを証しています。その神様の憐れみに、私たちが感謝する出来事がペンテコステです。
神様がなしてくださったその偉大なる御業に、私たちが積極的に与る機会を、神様ご自身が私たちに与えて下さり、道を開いてくださいました。それは、私たちがこの世で見捨てられてはいないことを示しています。神様は、私たちが好き勝手に生きて、滅びるままにされておくことを望まれなかったのです。そうではなくて、神様は、私たちがこの世に生きる意味を与えてくださいました。
 終わりに向かってひたすらに走っているこの世に、そして死に向かって日々刻々と前進しているわたしたちの人生に神は大いなる御業をなされました。神はイエスの弟子たちに聖霊を与えられて、わたしたちが自分の思いではなく、神の思いに従って生きることを可能にしてくださったのです。
 ですから、わたしたちのもっとも願い求めるものは聖霊です。この聖霊が与えられるならば、わたしたちは自分の思いではなく、神の思いに生きることができるからです。わたしたちは滅びから永遠の命へと移されるからです。祈ることができないならば、祈ることができるようにしてくださいと祈ればいいのです。
 聖霊は、わたしたちにすでに働いています。聖霊によってわたしたちはイエス・キリストを信じることが出来るからです。聖霊の最大の働きは、わたしたちをして神を信じさせることです。決して、何か突然、訳の分からないことを言い出したり、倒れたりすることが聖霊の働きではありません。わたしたちが自分の罪を認め、悔い改めようとするのも聖霊の働きです。わたしたちは不信仰なので、悔い改めたり、罪を認めたりするのは自分がやっていると思っていますが、それはわたしたちの思いではできないことです。神様の力によって、わたしたちは悔い改めたり、罪を告白したりすることができるのです。
ペンテコステの出来事は、何か一生懸命に祈り続けたり、修験道の修行のように滝に打たれたり、昼夜を分かたずお経を唱えたりというような修行や訓練によって起こったことではありません。そうではなくて、神の御業である復活の主に出会った人々が、神様の前に本当に謙遜に謙虚になって下された神の恵みの力の出来事です。
 神様はわたしたちにはっきりと明確にわたしたちが何をなすべきかを示してくださっています。それはイエス・キリストを信じ、告白することです。そしてその救いの喜びに満たされて、イエス・キリストを宣ベ伝えることです。ここにわたしたちの生きる意味があります。
「わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである」とイエス様ご自身が語られました。
 しかし、このことがわたしたちには分かりません。わたしをも含めて、わたしたちの大変多くの人々は、人生の目的がほかにあって、それを達成するために神を信じ、イエス・キリストを信じています。つまり、なにも信じていないのです。ひたすら自分の利益だけを求めているのです。教会に長く連なり、礼拝に欠かさず集いながらよりよい人生を送るためだけに、わたしたちがここにいるのであるならば、それは時間の無駄です。

 わたしたちがイエス・キリストを信じようと思えるということ、そのことがわたしたちの人生において輝いています。イエス・キリストを信じることが出来ると言うことが、人生の喜びなのです。それは信じがたいことなのです。
 「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」とかつてイエス様は教えてくださいました。(マタイ7:13-14)
 信仰の道は細い道であり、見いだすことが困難な道です。聖霊に問いつつ、聖霊の導きを祈りつつ歩もうとしなければ、見失ってしまう道です。

 聖書には、いくつも理解することが大変難しい箇所があります。こんなことがあるわけがないとか、こんな悪いことをした人がなぜ崇められているのか、なんで神様がこんなことを命じるのかというような類です。
 「だから信じられない」というのは非常に簡単ですが、それは滅びに通じる広い門です。大変多くの人々が、そのような判断をします。しかし、命に通じる道、聖書がその分からないことを通じてわたしたちに伝えようとしていることをわたしたちは聖霊の助けによって見いだそうとするのです。それは書かれている背後にある状況を知ることであり、自分自身を問うことです。聖書を批判するのではなくて、聖書において自分自身を振り返り反省することです。ここに命があり、これがわたしたちの入るべき狭い門です。
 そして、私たちは、この門をくぐりつつ、救いの御業を宣べ伝えます。教会に連なるということは、この救いの恵みにあずかり、御業を宣べ伝える業に連なるということです。私たちのそれぞれのなす業や生き方、生きる場所は異なりますが、教会に連なることによって、教会の部分となることによって、主イエス・キリストの体に連なり、その体の一部とされます。そのようにして、福音は、キリスト教会2000年の歴史において伝えられてきました。これからも、そのようにしてだけ、福音は伝えられてゆくのです。なぜならば、福音伝道は教会の業だからです。福音伝道に個人プレーはありません。誰も福音を自分で作り上げた人はいません。それは、必ず誰かから聞いたものであり、その大本は神の御子イエス・キリストによるからです。私たち一人一人の個人の行いは、主イエス・キリストに連なるということにおいて意味を持ちます。それは、教会に連なるということなのです。伝道者というような役割を果たした人々だけが、主イエス・キリストの体なのではありません。イエス・キリストを信じ告白する全ての人々が同じ、キリストの体であり、かけがえのないキリストの体の一部です。そして、私が本来の私としてあることを許されている場なのです。

昨日、横溝玲子姉妹が天に召され、足利のお宅に訪問させていただきました。
水戸中央教会を1984年から2000年まで牧会された主任の横溝洋三先生を牧師夫人として助けられました。昭和3年7月3日に横溝武雄さんとみちさんの長女として千葉県にお生まれになりました。お父さんは新聞記者で、当時のことですから、従軍記者としても働いておられたと聞いています。玲子姉妹が小学校2年生くらいの時に、結核でお父様は亡くなっています。お母様のみちさんは、女性伝道者の草分けで、九州などで奉仕されました。広島女学院の聖書の先生として奉仕をされている頃、軍国主義の影響で、聖書の授業がなくなり、職を失いますが、学校の配慮で、女学院の寮の寮監として生活をしておられました。そして、原爆に遭い、行方不明となりました。
 玲子姉妹は当時16歳で、あの広島の悲惨のただ中に一人ぽっちで放り出されました。行き場がなく生存者の家に身を寄せましたが、夜に死体を踏みながら、川へ水汲みに行かされたことをポツリと語って下さったことがあります。
 女学院のつながりで、歯医者さんのお宅にしばらく居候させてもらいますが、いつまでもそうしている訳にはいかず、千葉の親戚を頼って、一人で、汽車で千葉へ向かいます。当時、広島で被害にあった人々には、避難のために鉄道が無料となる措置が取られたそうです。しかし、その親戚のお宅では、その家のお嫁さんにつらく当たられて、一人で家出をしようと歩いているところにおばさんの夫が、状況を案じて迎えにきたところにばったりと出会ったそうです。銀座教会の主任牧師であった三井先生が、みち先生の教会学校の教え子であって、驚いたということもあったそうです。東洋英和女学校へ入学しようとしたところ、結核であることが分かり、6年ほど療養生活をします。お母さんのみち先生の同労者であったディップ宣教師が、アメリカから玲子さんの居所を突き止め、結核の薬であるストレプトマイシンを送って下さり、それによって病を克服することができたそうです。洋三先生とは結核療養所で知り合い、結婚されました。その後、山形県天童教会、群馬県太田八幡教会を牧され最後に私たちの水戸中央教会で16年に亘って、最も困難な時期に奉仕をしてくださいました。
 玲子姉妹は、小さいころ、イエス様が嫌いだったそうです。それは、お母さんが、いつもイエス様のご用事で家にいなくて、自分はどこかに預けられるからだったそうです。しかし、原爆ですべてが破壊された焼野原をさまよい、その景色が、讃美歌の「日暮れて四方は暗く」の情景とが全く同じで、自然と心の中からその讃美歌が口をついて出たということです。そして、小さいころから暗唱させられた聖書の言葉が彼女の心を支えたと聞いています。
 洋三先生が三年前に亡くなってから、長女の美智子姉妹が、看病をされていましたが、いつも「日暮れて、四方は暗く」の讃美歌を歌ってくれと頼まれて、よく歌っていたそうです。
 一昨日、夜中に立ち上がった時に、転倒し、病院に運ばれましたが、まもなく天に召されたということでした。

 「神はみなしごとやもめを顧みられる」と聖書は教えています。この御言葉を証したのが横溝玲子姉妹です。

 「教会をうまくマネージメントして、沢山の人が溢れているのがいい教会だ」というのではありません。「みなしごとやもめを顧みられる神」の愛の真実を証して、次々と人々が悔い改めてこの神に立ち返ったのがペンテコステに起こったできごとです。
 何時間も讃美歌を何度も何度も熱狂的に歌ったり、お祈りを繰り返して、心理的な陶酔状態を作り出して、人々が一斉に倒れたり、訳の分からない言葉を言い始めることが、神の力ではありません。
 聖書にはちゃんと書いてあります。彼らは様々な国の言葉で福音を語ったと、異言というのは確かに聖書に書かれており、ありますが、それよりも求めるべきは神の愛を知ることです。
 財産も地位も名誉も家族もなにもかも失って絶望の中にあるみなしごを神様は見捨てられない方です。私たちはこの神を信じ、求め、祈っているでしょうか?神を求めながら、私たちの求めている神は七福神のような方を求めていないでしょうか?私たちが神を見出し、出会うことができないのは、本当の神様の目の前で、七福神のような他の神々を神様だと思って探しているからです。
 神様は十字架にかかられたイエス・キリストなのです。「神なのに十字架に架けられるなんておかしい!」と、思ってはいけないのです。「十字架にかからないなんて、神ではない」「十字架に架けられて、復活する」というのが神であって、そうでないのは神ではないと考えるべきなのです。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
2017年6月4日 使徒2章1〜11節(2013年5月19日増補) 水戸中央教会 牧師室/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる