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zoom RSS 2017年6月25日 マタイ福音書5章13-16節

<<   作成日時 : 2017/06/27 07:34   >>

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13 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。 16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

 私たちが、イエス様を信じて生きることは、私たちが地の塩であり、世の光であることだと言われています。それは、私たちの性格や能力や素質がいいので、私たちが地の塩のようにこの世の中にとってなくてはならない有益なものではなく、光のように人々を照らすのではありません。その根拠は、まず、イエス様が、イエス様に従う弟子たちにおっしゃったことだということです。つまり、イエス様が、私たちに、「あなた方は地の塩」「世の光」とおっしゃったから、私たちは地の塩であり、世の光なのです。
 いつ、イエス様は、私たちに、「あなた方は地の塩、世の光」と、おっしゃったのでしょうか?それは、私たちが自分自身にさえ絶望し、自分の無力を感じ、周りの人々からも嘲りと嘲笑を浴びて、「この世に生きている意味なんて何もない」と思うような時です。逆説的ですが、私たちが何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられているような時、あるいは、素晴らしいことをなしたのに誰からも褒められず、かえって、そのなしたことが、人々から隠され、ともし火をともしたのに枡の下に置かれてしまったような時に、イエス様は、私たちに、「あなた方は地の塩、世の光」と宣言されたのです。
 
この「地の塩、世の光」の前には次のように言われていました。
3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。 5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。 6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。 7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。 8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。 9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。 10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

 貧しさの中にあり、悲しみの中にあり、柔和でなければならない状態であり、義に飢え乾くということは、正義が行われておらず、苦しんでいることです。義のために迫害されている人です。それは、人々に踏みつけられ、枡の下に置かれている状況と同じです。

 その私たちが「私は、この世でみんなから見放されている」と思う時、私たちに「あなた方は地の塩であり、世の光である」、「あなた方は、とっても重要な役割を担っている」と、おっしゃっているのです。「もっと頑張れ」と、言っているのではありません。「負けるな」と言っているのではありません。「あなたの今の困難は、神の御心であり、神のご計画の内にあることだ」と、おっしゃっているのです。そして、「その神のご計画は、あなたを通してなされるのだ」と、宣言されているのです。「神様はすべてをご存じで、ご自身の栄光をあなた方を通してこの世に現そうとしているのだ」と語られているのです。
 そして、神様のご計画が、私たちを通してなされることは、私たち人間にとって、考えも及ばない素晴らしいことであり、あらゆる喜びの中の喜びに満たされたことであり、これこそが永遠に生きる命の素晴らしさであり、ただただ感謝することで、人生が満たされることを意味しています。
 その神様のご栄光は、私たちが今、踏みつけられているから、踏みつけ返すことによって現れるのではありません。外に投げ捨て、踏みつける者を愛し、赦すことによって現れます。
 それはイエス様が歩まれた十字架の道を進むことです。私たちは、イエス様のように十字架にかかる必要はありませんが、イエス様の十字架の死によって救われているために、私たちの生き方も、イエス様の十字架の死が、私たち一人一人の人生の中で明らかとなります。そして、十字架で死んだイエス様が復活されて天に昇られたように、私たちも、私たちの人生の中で与えられる十字架を負い、死んでよみがえるのです。それはもちろん自殺ではありません。自分の思いを捨てて神様の思いに従うことです。神様の愛に信頼して、絶望の中に希望を信じて生きることです。いや、絶望の闇の中に、希望の光が天から射してくるのです。

 踏みつけられているから踏みつけ返すとは、「私が、こんな風な状態にあるのは、あいつのせいだ、あの人のせいだ、親のせいだ、夫だ、妻だ配偶者のせいだ」と、言い続けることです。イエス・キリストを信じるということは、もはやこのように「私が、こんな風な状態にあるのは、あいつのせいだ、あの人のせいだ、親のせいだ、夫だ、妻だ配偶者のせいだ」と言う必要は全くないということです。私が、こんな風な状態にあるのは、あいつのせいでも、あの人のせいでも、親のせいでも、夫や妻や配偶者や家族のせいでもなく、神様のせい、つまりこれこそ「神様の恵み」なのだと信じることが、イエス・キリストを信じることだからです。
 「えっ、私のこのみじめな状態は神様のせい?神様、不公平じゃないですか?」というのではありません。そうではありません。神様は、神の子である私たち一人一人に、神のご栄光を、その場で、私たちの今、身の回りにいる人々に現すために私たちそれぞれに、任務をあたえられているということです。奉仕の場をあたえられているということです。
 私たちは、この世のことしか考えませんので、来るべき世で与えられる報酬など思いつきませんから、この世の今の状態が、神様から与えられる報酬だと思っています。しかし、神様が、来るべき世に与えて下さる報酬の素晴らしさを思うならば、今の私が「私はなんで、こんなみじめな状態にあるのだろう」というような状態はみじめでも何でもないのです。「えっ、私はなんにもしてないのに。こんなに貰っちゃっていいのでしょうか?」とか「その恵みの大きさのゆえに、今ある苦しみは何でもない」とか言えるのです。
 これが私たちのイエス・キリストを信じる信仰です。そして、イエス・キリストを信じる信仰は、このような「神様が与えて下さる恵み」、「死後の裁きの後の神様の恵み、報酬の素晴らしさ」が、単なる人間の空想ではなく、本当にある、本当に起こる現実なのだと宣言しているのです。それは、復活が本当に起こったからです。
「人間死んでしまえば、お終いだ」というのは、人間の限られた経験に基づく想像の世界、空想の世界なのです。イエス・キリストは、この私たちの人間の限られた経験に基づく想像の世界、空想の世界を打ち破り、真実を示して下さいました。
永遠の命は、人間のはかない希望ではありません。神様の厳しい現実であり、神の恵みは、この世の富や名誉や地位よりも確かなものなのです。
その恵みのただ中に、今、私たちはいるということを覚えなければなりません。目覚めなければなりません。私たちは、いまだに眠っていないでしょうか?自分のなした富や地位やこの世の名誉が、あたかも何か素晴らしい価値があるものであるかのように思う夢の中にまどろんでいないでしょうか?この世の悲惨な現実に気が付いているでしょうか?

 罪を告白するということは、何か自己否定的で、暗い消極的な生き方ではありません。それは、真実に気が付き、目を覚まして生きているということです。現実を生きることが、罪を告白することです。朦朧とした幻と幻覚の中を生きている者は、自分の罪を告白する事が出来ません。それは、たえず自己高揚感を求める麻薬患者と同じです。宗教は麻薬ではありません。この世が麻薬なのです。常に自分のことしか考えないのが麻薬中毒です。
 信仰は、神の御心を思い、自分の思いを捨てさせる力を持っているから、私たちを麻薬中毒から解放するのです。隣人を赦し、隣人をともに生きようとするのが信仰です。それは中毒ではありません。そうではなくて、自我から解放された自由なそして高貴な命であり人生が、信仰です。
 私たちの高貴さは、生まれや家柄や富や学歴にあるのではありません。それは高貴でもなんでもありません。パウロは、「それらを私は糞土どのように思っている」と言っています。
高貴な方は神であり、神の御子イエス・キリストです。私たちのアイデンティが生まれや家柄や富や学歴にあるならば、それは、私たちが、投げ捨てられ、人々に踏みつけられる塩ではない塩と私たちがなってしまっていることを意味しています。


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