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zoom RSS 詩143篇1〜6節 聖書を学ぶ会 2017年7月13日

<<   作成日時 : 2017/07/13 12:19   >>

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1 【賛歌。ダビデの詩。】
神を賛美する詩であり、ダビデの詩とされています。
主よ、わたしの祈りをお聞きください。嘆き祈る声に耳を傾けてください。あなたのまこと、恵みの御業によって/わたしに答えてください。

 詩人は困難の中にあります。嘆き祈っています。そして神が恵みの御業によって、詩人に答えることを望んでいます。
 自分自身の祈りを思い返すと、このように祈ることはないということを私は言うことができます。そして、この祈りの背景に思いが至る時、「神様は、本当にいらして、自分を守り導いて下さっている。」、「神様は本当にいらっしゃるのだ。」という思いを私たちに与えます。「自分は一人ぼっちだ」「誰にも相手にされない」という方からの電話をとったりすることがあります。その方の言葉とこの聖書の言葉には、大きな違いがあることが改めて明らかになります。私たち、自分が「一人ぼっちだ」、「孤独だ」、「わたしなんか誰も相手にしない」というように思っているときに、この詩編の言葉を見ますと、あたかも詩編の祈りと自分の置かれている状況が同じであるかのように思って、孤独を嘆いている自分自身が聖書によって認められているかのように思い込んでしまいます。しかし、彼または私は、その祈りが神に向かうのではなくて、「牧師に、今の状況を訴えることは私の権利だ」とでも考えているようになるのです。インターネットのTwitterやFacebookなども、どこかしら同じような使い方がされているように私は思います。それで誰かから反応があるとホッとしたり喜んだりするのです。そもそも、電話をかけるネットに投稿するという行為そのものが、他者の反応を望んでいる、自分を受け入れてほしいと思う思いからなされています。ですから、「主よ、私の祈りを聞いて下さい」という祈りからは程遠いのです。
 それに対して、この詩人にとって、神様がいらっしゃることは自明のことです。「あなたのまこと、恵みのわざ」という言葉を引き合いに出すことができるということが、彼の信仰を示しています。

2 あなたの僕を裁きにかけないでください。御前に正しいと認められる者は/命あるものの中にはいません。

 裁きを恐れるということも大切なことだと、この御言葉を通して、私たちは知ることができます。通常の私たちは、「人間死んでしまえば、お終いだ」と思ったりしています。また、「イエス・キリストによって、全ての人は救われているのでしょう」と、言って、「だから、何をしても救われるのだから、私の自由にしていいのだ」と考えます。そこには、神の救いの御業に対する感謝が全くありません。「自分の思う通りにしたい。自分の思うとおりにして何が悪い」という基本的な姿勢がそこに浮き彫りになります。この「自分が思うとおりにしたい」という思いを宗教はサポートしてくれるものだと考え、この詩編の作者も自分と同じだと考えたり、誤認したりしがちです。「自分の願いを叶えてくれるのが神様だ」と思っているのです。そして、この考えに適合する箇所を聖書の中に見出して、自らの考えを強化してゆきます。しかし、本来的に聖書が訴えていることは、神様の願いに生きることが、人間にとって一番大切であり、根本的なことであり、神様の願いに生きることが、本当の自分の願いが叶うことだということです。
「自分の思う通りにしたい。自分の思うとおりにして何が悪い」という考えは、最初から破たんした考えであり、この考えが私たちを孤独に追い込み、誰にも相手にされなくなり、「自分なんか生きる意味がない」という結論と直結している思考です。なぜならば、私たちは、この世界に生きているからです。この世界は、私の思うとおりにならない世界です。神様が創造され、神様の秩序によって動かされている素晴らしい世界です。私たちのみじめな思考能力によって把握できるようなみすぼらしい世界ではありません。「自分の思うとおりにならなないから、ストレスを感じる」というのは、認識が甘いということです。

3 敵はわたしの魂に追い迫り/わたしの命を地に踏みにじり/とこしえの死者と共に/闇に閉ざされた国に住まわせようとします。

 詩人には敵があります。つまり詩人は何者かと戦っている訳です。彼は、神の御心に従おうとしているのです。そして、敵は、神の御心に従うまいとする、自らの罪ともいうことができるでしょう。それは、「自分の思う通りにしたい。自分の思うとおりにして何が悪い」という自らの思考であるということも可能です。この思考は、私たちの心の中に深く巣くっています。たとえば、自分の思うとおりにならないと、その人間関係から距離を置こうとします。そのことによって、相手を罰しているように意識下で考えているのです。そして、そのことを指摘すると、「そんなことはない」、「私はみじめな罪人ですよ」と見せかけの謙遜によって回避するのです。それが、嘘であることは、こちらが、何か彼の気に障ることでも言えば、向き直って、自分の正当性とこちらの不当さを、他の人々に自分の悩みを相談するという形で言いふらします。このようなことは、何も特定の人が行っていることではありません。それは、私自身の内にも明確に存在しますし、誰もがそのような考えを持っています。その意味で、この詩は、素晴らしいものであり、信仰によって知性が光り輝いています。
「自分の思う通りにしたい。自分の思うとおりにして何が悪い」という考えに抗うということは、至難の業です。しかし、それを私たちが為すことができるように、神様は律法を民に与え、そしてイエス・キリストを信じる信仰を私たちに与えて下さいました。
「自分の思う通りにしたい。自分の思うとおりにして何が悪い」という考えは、根本的に破たんした考えですから、この考えに振り回されていると孤立し孤独になり、誰も相手にしてくれなくなります。お金や地位や権力が、この考えをサポートしますが、根本的な孤独は解決されません。実質的な孤独は、ますます深くなります。なぜならば、そこには「自分の思う通りにしたい。自分の思うとおりにして何が悪い」という考えが示している通り、この考えの中に他者が存在していないからです。またこの場合、金や地位や権力の意味は、増大しますので、相対的に人間それ自身としての意味は低下してしまいます。そしてそれは高慢と卑屈をもたらします。

4 わたしの霊はなえ果て/心は胸の中で挫けます。
「自分の思う通りにしたい。自分の思うとおりにして何が悪い」という考えに抗うことは、自らの力ではできません。「霊がなえ果て、心は胸の中で挫ける」という告白は、彼がこの戦いを戦っているという事実を明確にしています。つまり決してネガティブな状態ではなく、霊に満たされている状態であるとも言えるのです。
「自分の思う通りにしたい。自分の思うとおりにして何が悪い」という考えは、疲れを知らず倦むことがなく私たちはこれに振り回されているからです。この振り回されている状態も「霊がなえ果て、心は胸の中で挫ける」と思っていますが、決定的なことが違います。その違いは、以下の言葉です。

5 わたしはいにしえの日々を思い起こし/あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し/御手の業を思いめぐらします。

 決して、いにしえの日々を思い起こして、私たちは希望を持ったりしないのです。聖書の御言葉を読んでも、「こんなことバカバカしい。昔話だ」と思っているのです。
そう、教会の中にいて、そう思っているので、信じている人々を馬鹿にさえしています。
それによって、「自分は、ましだ」と、考えたりする過去が私にもありました。

6 あなたに向かって両手を広げ/渇いた大地のようなわたしの魂を/あなたに向けます。〔セラ

「渇いた大地のようなわたしの魂」とは、「自分の思う通りにしたい。自分の思うとおりにして何が悪い」という思いで満たされている自分自身の心です。様々な人間関係の問題で私たちが学ぶべきことは、この「自分の思う通りにしたい。自分の思うとおりにして何が悪い」という思いが、私の中に厳然としてあるという事実ではないでしょうか。「許せない」という思い、その背景にあるのは、この「自分の思う通りにしたい。自分の思うとおりにして何が悪い」という考えが、沢山の偽装をして心の根幹にいるからではないでしょうか?「自分の思う通りにしたい。自分の思うとおりにして何が悪い」という考えは偽装を可能ならしめ、嘘を許容する考えだからです。

「赦す」ということは、自分の思い通りにならないことが当たり前、当然であると認めることだからです。つまり嘘を排除することなのです。


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