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zoom RSS 2017年7月30日 マタイによる福音書8章5〜13節

<<   作成日時 : 2017/08/03 23:45   >>

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5 さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、 6 「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。 7 そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。 8 すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。 9 わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」 10 イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。 11 言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。 12 だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」 13 そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。

百人隊長がイエスのもとに来て、自分の部下の病を癒して欲しいと願います。当時、ユダヤの国はローマ帝国の属国となっていました。そして属国となったユダヤをある程度の自治は認められていましたが、それはあくまでローマ帝国の許す範囲でした。ユダヤの国にはローマ軍が駐留しており、そのローマ軍の百人隊長というと今の軍隊の大尉か少佐というところではないかと推測されます。ただ、彼がローマ人であったかどうかは不明です。ローマ帝国軍の兵役には異邦人も就くことができ、そのことによってローマ市民となる特権が与えられていました。イエス様の10節の言葉には、「いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが御国の子らは、外の暗闇に追い出される。」と、あります。御国の子らとは神の民であるユダヤ人を指していますから、大勢の人々は異邦人であり、この百人隊長は、異邦人であったと考えられます。

 イエス様は百人隊長の求めに応じて、「わたしが行って、いやしてあげよう。」とおっしゃいました。このイエス様の申し出に対して、百人隊長は、「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」と願いました。そしてイエス様は、この百人隊長の謙遜さとイエス様への信頼の強さに感心し、百人隊長の願いをその場で叶えています。百人隊長の僕の病気は癒されました。

 イエス様は、「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」とおっしゃっています。誰もが、高名な先生が来て直接癒していただけるというなら、喜ぶでしょう。そして、偉い人が訪問してくれたということは、家にとっても誇りとなります。よく食堂などで、何某の有名人がそこを訪れたというサインやら色紙、写真などがあることがあります。そのことによって店の信用を宣伝している訳です。決してその有名人が、好きでも尊敬している訳でもないのです。そうゆう有名な人も訪問するほど、おいしい店なのだということが言いたいだけです。その有名人が、この店を認めたということが大切なのです。

 私たちの神への信仰は、どうでしょうか?神様がわたしの素晴らしさを認めてくれたということに私たちの関心が向いていないでしょうか?
 苦難の中にあるとき、私たちは神に向かって叫びます。そして神様は私たちを救ってくださいます。これは、先に言った、神様がわたしを認めてくださったということとは違うのです。苦難の中にあって「神様助けてください」と、祈るとき、私たちは、その苦難の前にお手上げの状態であり、私たちは自分の力を誇ることは出来ません。神の力を認めるしかないのです。神にすがることしかないのです。
 しかし、私たちの信仰が先にお話しした食堂のような状態ですと、神様は、私たちの権威を飾る道具になっています。わたしは、強大なローマの百人隊長であるから、イエス様が直接来て癒してくださる。「やっぱりわたしは大したものだ」という考えが私たちの中に巣くうことは、ありがちなことなのです。
 そして、そういう思いが起こりがちな人間の心の中で、この百人隊長が、
「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」と言ったことの意味は大変に大きいのです。
 キリスト教信仰とは、偽善ではないと言うことがお分かりいただけるでしょうか。むしろ偽善と対極のところにあるのが、信仰なのです。
 この百人隊長は、「主イエス様が、わたしの地位を認めたから私のところへ来てくださる。やっぱり私はローマの百人隊長なのだ。」という考えが頭を持ち上げるところで、彼は主にひれ伏したのです。「私は、あなたに来ていただく資格のない者です。どうぞ、お言葉だけを下さい。」
 偽善とは神の権威を認めるふりをして、自分自身の価値を神と人に認めさせることです。信仰はただ神の権威にひれ伏すことです。簡単に言ってしまえば、自分を宣伝するのが偽善とするならば、神を宣伝するのが信仰です。そして私たちの信仰の証は、自分を神様の広告塔として差し出すことです。

 百人隊長は、ただ神の権威にひれ伏すことによって神様の広告塔となりました。神の力の偉大さは、彼の信仰によって、私たち人間にとってさらに明らかになりました。神はあらゆる立場、状況の中にある人々を求めていらっしゃいます。私たちは、どのような状況の中にあっても神の権威にひれ伏して生きることができるのです。あらゆる状況の中にある人々の希望の光となることが出来るのです。
 健康であろうとなかろうと、豊かであろうとなかろうと、喜んでいようとも悲しんでいようとも、私たちは神の権威にひれ伏して生きることが出来るのです。神の権威の内に生きることは素晴らしいことです。人からけなされようが褒められようが、私たちにはそれは、あまり関係のないことです。神に喜ばれることが私たちの関心事です。善をなすとき、右の手のすることを左に知らせてはならないというイエス様の戒めがありますが、これは私たちがひたすら神の御心に従って生きるその生き方を表現しているのです。

 私たちは、どのように神の権威にひれ伏すのでしょうか?それは祈りによって、祈りにおいてです。何か問題に直面したとき、私たちはどうしようもなくなって「苦しいときの神頼み」で神に祈るのではなくて、普段に、いつも祈ることが大切です。そして、その祈りの中で、私たちは一歩一歩、自分の歩む道を確かめてゆくことです。
 神の権威にひれ伏すとは、感謝をもって一日を始めることです。今日、今始まる一日はあなたの人生にとってかけがえのない素晴らしい一日であると信じ、告白することです。
あなたにとって、この今日の一日が大変につらい一日であったとしても、「なぜ、神様、あなたは、もう一日私を生かそうとするのですか?」と、叫ばねばならないような一日であったとしても、その一日は、私たちの喜びの時と同じ価値を持った一日であり、素晴らしい価値を持っているのです。その嘆きを神に訴えるとき、その一日は無駄な一日ではありません。

 私たちの人生の価値は、私たちが何をしたか、どんな業績を残したかというようなことではありません。私たちが神に祈り求めたか否かにかかっているのです。そして、神の御心に従ったか、それを求めたが決定的なことなのです。
 このことは、私たちが人生をやり直すことが出来ることを意味します。何事も手遅れではないのです。なぜなら私たちは業績を残そうとするからではないからです。
私たちは人生をやり直さねばならないのです。なぜなら、神の御心ではなく、私の思いによって私たちは生きてきたからです。

 フィリピンにこんなお話があるそうです。

ある王様に二人の息子がいました。年をとって王様は、二人の内のどちらを後継者にするかを決めておかなければと考えました。王様は、国の賢者を集め、二人の息子を呼びました。王様は二人にそれぞれ5つの銀貨を与えて言いました(たぶん5万円くらい)。「このお金でもって、夕方までに城の広間をいっぱいにしてみよ。なにでいっぱいにするかはお前たちそれぞれが考えることだ。賢者たちは、「それはよろしゅうございます。」と、いいました。
長男は、お城を出て、サトウキビ畑を通っていると、サトウキビの収穫で沢山の人が働いていました。そしてサトウキビを搾り機で絞っていました。搾り終わったサトウキビが山のようにあたりに置かれていました。長男は、「これはちょうどいい。この要らなくなったもので、父さんのお城の広間をいっぱいにしよう」。畑の管理人に話すと、快く了承してくれたので、夕方になるまでに搾り終わったサトウキビで広間をいっぱいにしました。そしてお父さんのところへ行って言いました。「私はお父さんの言いつけを果たしました。弟を待つ必要はないでしょう。私を王位後継者にしてください」。父は言いました。「まだ夜ではない。もう少し待ってみよう」。
それからまもなく弟がやってきました。弟は、搾りかすのサトウキビを広間からもう一度、運び出すようにお願いしました。そして、サトウキビが運び出されると、広間の真ん中に一本のローソクを立てて、火をつけました。蝋燭の輝きが広間の隅々まで満たしました。
お父さんの王は言いました。「おまえが私の後継者だ。兄は、使い物にならないもので、私の広間を満たすために5つの銀貨を支払った。おまえは一つの銀貨も使うことなく、広間を光で満たした。お前は広間を、人が必要とするもので満たしたからだ」
DIE HALLE DER WELT MIT LICHT ERFÜLLEN
Geschichte von den Philippinen
http://www.predigt-eichendorf.de/indexHauptmenueTexteboerseKanzel.htm
 私たちは、私たちの人生をなにで満たしているでしょうか。死んでしまえば、あの世に持ってゆくことができないもので私たちは自分の人生を満たしていないでしょうか?まさに業績は、サトウキビの搾りかすと言えます。
 先週、日野原重明先生が天に召されました。日野原先生のお父さんは、日本基督教団の牧師でした。「人のために時間を使う」ということの意味を教えて下さっていたとテレビでやっていました。
 もう一人、先々週の土曜日、元水戸自由が丘教会の牧師であった西上信義先生が天に召され、水曜日の伊勢崎教会で葬儀ありました。とても信仰深い、牧師先生で、お話の途中で祈り出されたり、「一緒に讃美歌を歌いましょう」ということが自然にできる方でした。
第一テモテへの手紙2章8節にあるように:
8 だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ることです。
この御言葉を実践して生きて下さったと思います。
そして、この御言葉を読みながら、「先生も随分、腹の立つことや争いたいことがあったのだろうなぁ」と改めて思ったのです。
 怒りと争いの心の闇を照らすのは、祈りと賛美ではないでしょうか?

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