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zoom RSS  2017年8月6日 マタイによる福音書9章9〜13節 「憐れみの神」

<<   作成日時 : 2017/08/06 22:16   >>

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9 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。 10 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。 11 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。 13 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

 主イエスが、収税所に座っているマタイという一人の男に声をかけます。
「私に従いなさい。」
この言葉にマタイは直ちに従います。最初の弟子であるペテロやヤコブなども、やはり彼らが漁師として働いているただ中で、イエス様が、「私に従いなさい。」と声をかけられて直ちに従っています。
 「不思議なことだ」と私たちは思います。「何かイエス様に、有無を言わせぬ強制力があったのだろうか」とか考えたりしますが、そのようなことは書かれていません。

 日本には桃太郎の昔話がありますが、これとは随分違うお話です。桃太郎についてゆく犬や猿や雉は、桃太郎が持っている吉備団子が目当てでついてきます。そして吉備団子のために命をかけて鬼と戦います。考えてみますと、大変に日本の事情をよく繁栄した話で、昔の武士と非常に重なります。大河ドラマなどでもよく取り上げられますが、武士は恩賞である領地を獲得するために、命を投げ出して主人に仕えるわけです。そして恩賞が不服で主人を裏切ったりすることがあるわけです。

 イエス・キリストは、何かを約束して、「私に従うとこれこれしかじかのよいことがあるよ」と、おっしゃって「弟子になりなさい」と声を掛けられた訳ではありませんでした。イエス様と弟子たちの関係は、物で量ることができるような利害関係ではなく、深い人格的なつながりであったと言うことが出来ます。
 「私に従いなさい」というイエス様の声を聞いて、素直に従うことが出来る者でありたいと願います。私たちは、そう願いますと、「イエス様にいつ声を掛けられてもいいように備えておこう」と考えてしまいますが、しかし、そのようになるために、私たちは何の準備もいらないのです。この人々がイエス様に声を掛けられて、弟子となるとき、全てをそのままにして直ちに従っています。ペテロやヤコブたちは漁師で、働いている最中に声を掛けられますが、網もまた親も置き去りにして従っています。このマタイも収税所で働いていたときに声を掛けられ、辞表やら同僚に挨拶をして身辺をかたづけてからイエスに従ったとは表現されていません。

9:9 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。

 イエス様は通りがかりにマタイに声を掛けられました。別にマタイを見込んで、彼のところへわざわざ出向いた訳ではなかったのです。私たちは、ここに聖書を伝えた人々のイエス様への信仰を見ます。マタイは後にキリスト教会の指導者となる人ですが、彼は自分の誇りなどについては一切語っていません。
 私たち人間の一般的な関係では、「誰々は、私の隠れた能力を発見して評価してくれた。」「彼は、私の良さを見いだしてくれた」というようなことに恩義を感じたりします。自分が褒められたということを喜んだりします。しかし、イエス様は、マタイを褒めたりしてはいません。ただ「私に従いなさい」とおっしゃっただけです。イエス様の権威がここには示されています。そして私のような者に声を掛けてくださったという謙遜と感謝が言われています。

9:9 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。

 ここには、イエス様に声を掛けられたとき、全てを投げ出して、ただイエス様に従い、そして最終的に振り返って、「それでよかった。」それどころか、「従わせていただいてありがとうございます」というイエス様への感謝が表現されています。
 マタイや他の弟子たちも、イエスの呼びかけに直ちに応えてよかったと思っているからこそ、ここにそのように記録されているのです。彼らは、最終的にイエスに従い続けて、よかったと思い感謝しているからこそ、このように記録されているのです。

 とるものもとりあえず行くということでは、日本には、スズメとキツツキの昔話があります。
むかし、むかし。きつつきと雀は姉妹(しまい)だったそうな。
 あるとき、きつつきと雀は着物を織ろうとかせ糸を染めていたと。
 そしたらそこへ使いが来て、
 「親が病気で死にそうだから、すぐに来い」
というたと。
 親おもいの雀は、親が病気と聞いて、着物どころではない。
 「姉ちゃんすぐに行こ」
というたら、きつつきは、
 「なによ、大げさなんだから。そんなにかんたんに死ぬもんですか。私は着物を縫いあげてから行く。美しい着物を着た私を見たら、いっぺんに元気になるわよ」 
 というて、かせ糸を染め続けたと。雀は、
 「じゃあ、私、先に行くね。やっぱり心配だから」
というて、かせ糸を首にかけたまま飛んで行ったと。
 きつつきは「妹はほんとに心配性なんだから」といいながら、かせ糸を染めていたと。
 雀が親のところへ着いてみたら、親の病気は本当に重くて、今にも命が切れようとしていた。親が寝床から雀を見て、
 「おお、ようきてくれた。お前ひとりか。お姉ちゃんは」
ときいたので、雀は、
 「お姉ちゃんはきれいなべべを縫いあげてからくるって」
というた。そしたら親は、
 「きつつきには、親の死に目にすぐに来ない罰をやらにやぁ」
というて、
 「姉には、『山の木の虫をとっては、一(ひと)つは天に、一つは地にあげて、三つ目が自分の口に入るような暮らしをしなさい』というといてちょうだい。いいわね。
 雀よ、お前は親孝行だから、村々の米倉を捜して、米を食べる暮らしをしなさい。田んぼの初穂をついばみ、豊作を祝ってやる暮らしをしなさい」
というた。これがゆいごんになったと。 
 それで雀は初穂をついばみ、米倉に寝て米を食べ、きつつきは山で木にさかさにとまって、木に穴を開けて虫を捜しているのだそうな。
 雀が首に白い木綿をまいて、きつつきがかすりの美しい着物を着ているのは、こんなことがあったなごりなんだと。

 そしこんむかし。 
http://minwa.fujipan.co.jp/area/kagoshima_011/

http://www.dailymotion.com/video/x453614 (日本昔話、「キツツキとスズメ」説教ではこちらを採用。子供などもいたため。)

 日本には、親の死に目に会えるか会えないかということは、親孝行という点で、非常に大きな意味を持っています。葬式などでもお通夜には、わざと普段着で出たりしなければならない風習が以前はありました。香典なども、新札は使わないという風習は、今もあります。これらの風習は、前々からその人が死ぬのを準備して心待ちにしていたとか言うことではなくて、「まさか亡くなるとは思ってもいなかった。」と、驚いて、駆けつけてきたという姿勢を表現しています。

 イエス・キリストに、「従いなさい」と言われて直ちに従った弟子たちの物語は、つまり、私たち人間にとって、このイエス様の「従いなさい」という言葉が、「親が死にそうだ」という子供にとっての大事件よりも、大きな意味を持っている出来事だということです。
 「従いなさい」と、イエス様から言われた時、「まず親を葬りに行かせてください」とお願いした人がいました。それに対してイエス様は、「死人は死人に葬らせよ。あなたは、私に従いなさい」とおっしゃっています。また、「すべてを捨てて従いなさい」とイエス様に言われた時に、お金持ちの青年は、その富を捨てることができず、イエス様のもとを去ってゆきます。
子供にとって親が大事なのは、それは、自分をこの世に生んで、育ててくれた、自分がそもそも存在している根拠であり、なによりも、親が愛して、育ててくれたから今の自分があるという現実認識に基づいています。親の愛とは、比べものにならない大きく深い愛で、神は私たち人間を愛してくださっており、人間がそもそも、この世に創造されて、生かされているのは、この神様のおかげだということが認識されているのです。
「聖書は親を大切にしなくていいというのか?」というのではありません。

 イエス様との出会いは、つまり終末的意味を持っている。世の終わりを告げているのです。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」とイエス様がおっしゃった、神の国の到来は、この世の終わりを意味しているからです。

9:10 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。
9:11 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
9:13 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

これは、神の国の現実を私たちに示しています。そして神の国の実在を証している出来事です。イエス様が、罪人と共に食事の席についてくださった。なぜならば、神の目から見るならば、私たちはみな団栗の背比べの罪びとに過ぎないからです。客観的に見るならば、私たちはみな罪びとです。そのことを示すために、イエス様は、兄弟に馬鹿者と言って怒るのは殺人と同じだと教えてくださいました。心の中で他人の妻を犯す者は、姦淫を犯したのであると教えてくださいました。それは、神様の判断がどのようなものであり、本当の現実はどのようなものであるかを示してくださっています。
私たちの限られた知恵でも、心の中の思いがなければ、行動はそもそも起こらないということは分かります。
どんな立派な聖人であろうと、王であろうと、みな一人のあわれな罪びとにすぎません。

1916年にウィーンのシェーンブルン宮殿で皇帝フランツ・ヨーゼフが亡くなりました。彼は、カプチン修道院の地下墓地に葬られました。こんな目撃証言が伝えられています。皇帝の大理石の棺を運ぶ葬式の隊列が、地下墓地の門に近づいた時、伝統に従って、皇帝の軍隊の最高指揮官である元帥が、墓に入れてくれるようにお願いします。杖で門を叩き、「オーストリアの皇帝、エルサレムの王が御成りだ。門を開けろ」。門は開かず。中から修道院長が答えます。「そんな人は知らない」。二回目に元帥は門を叩いて、「イエス様のお弟子様、ハンガリーの王がお越しです」。再び地下墓地から修道士の答えが返ってきます。「そんな人は知らない」。三回目に、元帥はノックをして、言います。「罪人、私たちの兄弟フランツ・ヨーゼフが参りました」。するとただちに門の扉は開かれました。

Verfasser unbekannt
http://www.predigt-eichendorf.de/indexHauptmenueTexteboerseKanzel.htm


 「私に従いなさい」。この主イエス・キリストの言葉は、今、すべての人に語られています。「とりあえず、この帳簿をつけ終わりましたら ・・・。」と、マタイは応えませんでした。網を繕っていたペテロたちは、「この網を繕ったら・・・。」とは、言いませんでした。それどころか、彼らはイエス・キリストと共に歩んで、彼らがどう知恵を尽くしても魚が捕れなかったときに、イエス様の言葉に従って船が沈みそうになるほど魚を捕まえることを経験したのです。イエス様の言葉に直ちに応えて、大切だと思っていた全てを捨てた彼らは、自分たちが大切だと思っていた以上の素晴らしい人生を与えられたのです。
 天国への鍵は、自らが罪人であることを告白して、神の赦しである十字架のイエス・キリストを信じることです。ここに私たちのこの現実の人生の豊かさと真実があるのです。

主イエス・キリストに従う人々に神の祝福が豊かにありますように。
(2005年7月17日説教増補)

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