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zoom RSS 2017年10月1日 ヨハネ第一の手紙3章9〜18節

<<   作成日時 : 2017/10/01 20:16   >>

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9 神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。 10 神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです。正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です。

 「神から生まれた人は、皆、罪を犯しません」という表現は、少し極端ではないかと思うのではないでしょうか。自分自身を振り返った時、とても「罪を犯しません」なんて言うことはできません。また、自分で「正しい生活をしている」とは、思いもよりません。
 しかしながら、だからこそ、この御言葉が真実であることが、分かる面もあるかと思います。例えば、「もし、あの時、あそこにいたら、罪を犯していたのではないか?」と思えるような経験を私たちは持っていますし、「何かの偶然で、過ちを犯さずに済んだ」ということがあります。その偶然は、時間が経てばたつほど、より偶然ではなくて、神様の守りを私たちは感じるようになります。それは、信仰の深まりを意味します。より根本的に考え、生き、自分の人生を捉えることができるようになっていくということを、それは意味しています。ですから、「神から生まれた人は皆、罪を犯しません」というのは、傲慢な、「自分は絶対に罪など犯さない」というのではなくて、非常に謙遜な、「肉の私は罪を犯し続けている」という罪の告白をもたらすものです。

11 なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。 12 カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。

 「互いに愛し合いなさい」ということは、「神から生まれた人は皆、罪を犯しません」ということと同じように、信仰にとって必須のことであることが、ここで言われています。「互いに愛し合いなさい」というと、私たちは、何かやたらと親しくべたべたとしなければならないのだろうかと思ったりしますが、そうではありません。何かいつも会って話したり、しょっちゅう一緒にいるということではないのです。「カインのようになってはなりません」という言葉が非常に効果的に本質を突いています。
 カインは、最初の人であるアダムとエバの長男として生まれます。カインには弟アベルがいました。ある時、二人が神様に捧げものをして、礼拝したとき、神様は弟アベルの捧げものを喜ばれましたが、カインの捧げものには見向きもしなかったということが起こりました。カインはアベルを妬んで、これを殺してしまいます。
 この話は、私たちは、カインの問題と捉えるよりも、「神様が不公平で悪いのではないか?」とまず、考えてしまいます。しかし、それは本質的でも現実的なことでもありません。この問いは、まさに私たちがカインと同じ人殺しであることを示しています。神は公平で真実な方です。「私たちは世の中、不公平だ。なんであの人はあんな風に楽をして、いい生活をしているのに、私は違うんだろう」などと考えがちですが、それは、私たちが信仰によって生きていないことを自ら告白しているにすぎません。
 イエス・キリストを信じて、生きてゆく中で、私たちは本当にイエス様のおっしゃったとおりに神の国は、畑に隠されている宝と同じだと分かるようになってきます。イエス様のたとえ話で、神の国は、畑に隠されている宝のようなものだ。ある人がそれを見つけると、全財産を売り払って、その畑を買うと言われました。
 つまり、私たち一人一人の人生のただ中に、大きな宝が隠されていることを私たちは福音によって知り、体験するからです。その宝の価値は、ものすごいもので、比較などする必要がないのです。まったく神様は何と大きな恵みをくださったのだろうと、私たちはそれぞれの人生の中で神を賛美することができるのです。「あの人は偉い人だ。」とかそうでないとか、「あの人は経済的に豊かな人だ」とかそうでないとか。「あの人は能力がある」とかそうでないとかは、全然、そんなことを比較して優越感を持っていたり、劣等感を持っていたりしたことが、バカバカしいと思えるそのような恵みを神様は私たち一人一人の人生に与えて下さっているということです。
 しかし、そのすべてがあのカインとアベルの事件のように一瞬の内に台無しになってしまうのです。ものすごい宝を与えられ、神の恵みを溢れるほどにいただきながら、私たちは神様にそれを感謝するのではなくて、同じように恵みを頂いている人と自分とを見比べて、「不公平だ」というのです。いかに聖書が深い真理を突いているかが明らかになります。
どんなにこの世的には豊かになって、社会的な地位が高くても、この比較から逃れることが出来なければ、結局は同じことであり、それがまさに罪であることが明らかにされています。
 ですから、べたべたと付き合う必要は全くなく、べたべたとしていれば、余計にむしろこのやっかみや妬みは増長します。やっかみと妬みに満ちた人々がするのがいわゆるべたべたとした付き合いです。そのようなものをきっぱりと私たちは破棄しなければなりません。これは中国の古い知恵にも言われていることで、「小人の交わりは甘き事酒の如く、君子の交わりは淡き事、水の如し」というのと通じています。 

13 だから兄弟たち、世があなたがたを憎んでも、驚くことはありません。
 
ここで兄弟愛の問題が突如、「世が私たちを憎む」という次元へと視点が跳躍しています。しかし、本当のところは、この論理は、現実を直視し続けているのです。正しいところに立つということは、世の憎しみを買うことになります。イエス様も同じでした。律法学者や祭司長たちは、いわば、当時のユダ人社会において、非常な権威であり、律法学者や祭司長になるということが、社会においていわば最高の出世であったと考えられます。そこへ、ふらりとイエス・キリストが現れます。圧倒的な神の力とその権威ある言葉は、律法学者や祭司長たちも従わなければなりませんでした。彼らは、イエス・キリストを排斥しようとします。そして、そこに彼らの本質が明らかになったのです。彼らは神を崇めるために生きていたのではなく、自分が崇められるために律法学者や祭司長になっていたということが明らかになったのです。
 この世の誉れを求めていた訳ですから、彼らは死とともに滅びざるを得ません。

14 わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。

 私たちは何か素晴らしいことを他の兄弟姉妹がしていると、それを妬んだりします。その兄弟姉妹が自分のコントロールできる範囲にいるならば、平静にしていることができますが、自分の権威が薄らいでしまうようなことになると、それを排斥しようとする心が動き始めます。

あるところに、貧しい孤児がいました。彼の望みは、家族の一員になることでした。温かい家庭にあこがれていました。その願いが叶う日がやってきました。養子にしたいという夫婦が現れたのです。互いの自己紹介が終わり、とてもそのご夫妻も孤児自身も了解し、書類にサインがされて、養子縁組は成立しました。夫妻はこの孤児を自分たちの家に連れて帰り、歓迎のパーティを開き、近所の子どもたちにも紹介し、素晴らしい新しい人生が、孤児に始まりました。自分の部屋が与えられ、孤児院から持ってきた、彼の着古した服やたった一つのおもちゃは捨てられて、新しい服を夫妻が買い与えました。自分は近所の普通の子供たちと全然変わらない同じになったと彼は思いました。ただ一つ、彼が孤児院からはいてきた穴の開いた靴は捨てられずに、暖炉の上に置かれていました。変だなぁと彼は思いましたが、その理由は間もなく明らかになりました。彼が何か家族にとって都合の悪いこと、いたずらではないでしょうが、従順でないとき、必ず、彼は暖炉の前で、その靴を見せられて、「お前はこの家に来た時、何にも持っていなかった。すべては私たちのおかげではないか、なぜ私たちを困らせるようなことをしたのか。」と、説教をされたのです。(インターネットより)
 彼は孤児院から解放されたというよりも、新たな強力な支配のもとにつながれただけであったことを悟った訳です。
 孤児のことであるという特別な設定で、この支配が明らかになりますが、このような支配は私たちの日常生活の中でごく普通に行われています。隣人に向かって、古い靴を投げつけるようなことを平然と行っています。それは実は支配であって、その人へ向けられた愛ではないということです。実際の普通の親子にすらそれは見受けられます。(

 あなたがは善をなすとき、右の手のすることを左の手に知らせるなとイエス様はおっしゃいました。神様の愛は、私たちを縛りません。私たちを支配から解放して自由の中に、本当の私として生きることができるようにしてくださいます。

 旧約聖書には、ただ、昔神様は、奴隷であったイスラエルを救い出し、乳と蜜の流れる地カナンに導いて下さったのに、あなたたちはその恩を忘れているというような預言者の言葉が沢山出てきます。それはどうなんだろうと一晩二晩考えました。神様は、このエジプトの支配から解放して下さったのに、イスラエルの民は、みずからまたこのエジプトの支配と同じ力の支配のもとに戻ってしまっていることを預言者は批判しているのだということに気が付きました。 

15 兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。 16 イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。

 私たちはそれぞれ主イエス・キリストに仕える僕です。祈りにおいて「主よ」と私たちは呼びかけています。だから、主が喜ばれることを喜びましょう。それは兄弟姉妹が兄弟姉妹として神に仕え生きているのを妨げない、そのことを喜ぶということではないでしょうか。喜ぶものと共に喜び、悲しむ者と共に悲しむ

17 世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。 18 子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。

今日は、永眠者記念日ですが、私たちの先達もまた、この神の真実を証して下さったことを今一度思い出し、感謝して新たな一年を歩んでまいりたいと願います。

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