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zoom RSS 詩編046篇 聖書を学ぶ会 2018年1月11日

<<   作成日時 : 2018/01/12 01:02   >>

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1 【指揮者に合わせて。コラの子の詩。アラモト調。歌。】

2 神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。 3 わたしたちは決して恐れない/地が姿を変え/山々が揺らいで海の中に移るとも 4 海の水が騒ぎ、沸き返り/その高ぶるさまに山々が震えるとも。〔セラ

神は私たちの避けどころ、私たちの砦と言われています。しかし、この考えは、通常の私たちの考えとは全く違っていることを私たちはあまり意識していません。先の大地震の時、まさに山々が揺らいで海の中に移り、海の水が騒ぎ、沸き返ったように津波が押し寄せた時、多くの人々が言いました。「人を愛する神様がいたら、こんなことが、なぜ許されるのか?」、「こんなことが起こるということは、神はいないのだ」と。それはクリスチャンではない、一般の人々が言ったばかりでなく、私たちクリスチャンも大変に動揺しました。英国の高位聖職者は、アチェの津波の惨状に直面して、「神様はいない」とおっしゃったと聞きました。その一方で、同じインドネシアのアチェの地震と津波の際に、自分の家が崩れていくのを前にして、「神様、感謝します。」と祈っていた年配の婦人を見て、その驚きを現地の日本人の知り合いがメールで伝えてくれました。
 ですから、基本的に、問われているのは、神の存在ではなくて、実は私たち自身の信仰であるということです。
 この詩編の祈りは、もちろん、天地万物を創造された唯一の神への信仰から生まれています。地も姿を変え、山々も揺らぎ、海の水も騒ぐという表現は、地も山々も、海も神ではないことを告白しています。大河も神ではありません。「そんなことは、当たり前だ」と、思われるかもしれませんが、古来より、そして、ほんの150年ほどまで、この那珂川や鬼怒川、利根川など、身近な河川で、人身御供が捧げられていました。川の神がいると私たち日本人は思っていた訳です。それは、ヨーロッパにおいても同じで、キリスト教が伝わるまでは、人身御供というのは、極普通の習慣であったのです。それどころか、聖書には、神に選ばれたイスラエルの民ですら、自分たちの国を持ち、発展してくると、周りの多神教の国々の影響を受けて、子どもを殺して神に捧げるなどの風習を取り入れたことが記録されています。それが、イスラエルの民が、自分たちの国を失う原因となったと聖書は教えています。
 そして、日本はいまだに多神教が支配的な国ですので、自分たちが過去に人身御供のような忌むべき風習を行っていたことを認めず、「そんなことは、伝説であって、事実ではない」と、言い張っているところに、愚かさがあります。これに対して聖書は、実に誠実に、イスラエルの民が人身御供に手を染めたことを告白して、それを自分たちの罪として認めています。
 日本は、西欧に追いつけ追い越せと明治維新以来、頑張ってきた訳ですが、キリスト教会が形成してきたよい風習は、ある意味、文句なしに取り入れています。人身御供などは、もう行われていません。それに伴って、人権の擁護なども常識的になっています。私がここで、注意を喚起したいのは、キリスト教会は、この日本社会を本当に音を立てることなく、その影響力によって根本的に変えてきたということです。特に悪い風習を広めてきたということはなく、闇の中に光が差し込んでくるように、この日本社会を変えてきたということです。
 日曜日は、日々の仕事を休んで、教会に来るものだという習慣もまた、その素晴らしさが、この日本で明らかになり、世界で再発見されることになると私は考えています。

5 大河とその流れは、神の都に喜びを与える/いと高き神のいます聖所に。 6 神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。 7 すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神が御声を出されると、地は溶け去る。

 「神の都、いと高き神のいます聖所」、「神は、その中にいまし、都は揺らぐことがない」という表現は、イスラエルの国が、まだ存在し、豪壮なエルサレム神殿が、破壊される前に、この祈りがささげられたのではないかと思いがちですが、破壊された後にこの祈りがささげられたと考えることは、可能です。目に見えていた神殿が崩壊して、国を失い、困難の中に生きる中で、イスラエルの民は主に立ち返りました。その立ち返りの時、彼らは、人間の手で建てられたエルサレム神殿が、崩壊した後も、神は神であり、神殿の建物が神様ではなかったことを知ったのではないでしょうか?エルサレム神殿、その目に見える建物はなくとも、神は神としていまし、その神の大いなる恵みに与って生きている自分を見出した時、彼らはエルサレム神殿は破壊されていないということを確信したのです。
 それは、永遠なる神の御臨在を信じることであり、ですから、ここには永遠の命への信仰と同じものの萌芽があります。
 国々は騒ぎたちと言います。確かにエルサレム神殿を国々は破壊して、神に勝ったかのように、彼らは思っています。しかし、目に見える建物を彼らは破壊しただけで、神そのものは、なんの被害をも受けていません。神はこの天と地を創造された方です。逆らいうると考える国々がむしろ愚かなのです。
 この「国々は騒ぎたち」という表現は、私たちの心の中の出来事として理解することが可能です。「あの人が、陰であんなことを言っているそうだ」、「そんなことをしたら、人にどう思われるか分からない」とか、精神的なストレスによって私たちが立ち上がれなくなる多くの場合、私たちの心の中に起こってくる自分自身の思考が、私たちをがんじがらめにしていることが往々にしてあるからです。色々と先々のことまで、想定して、「だから、できない」というようになってしまって、積極的な現実的一歩を踏み出すことができないということなども、「騒ぎたつ国々」と同じです。
 そして、困難の中で、イスラエルの民を生かすのは、天と地を創造された神のみです。それは、空想や願望が凝り固まったものではなく、冷徹な現実認識です。イスラエルの民は見捨てられ、路頭に迷い、ただ神の憐れみだけによって生かされているのが現実だからです。
 彼らは、あの出エジプトの出来事の前夜に立ち返ったのです。あの前夜を思い起こし、海を切り開いて渡らせた神の御業を思い起こしているのです。

8 万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。〔セラ 9 主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。 10 地の果てまで、戦いを断ち/弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。 11 「力を捨てよ、知れ/わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」 12 万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。〔セラ
 神がともにいまし、私たちを守り導いて下さっている。様々の困難の中で、今も生かされているそれは天地を創造された神の御力によるということです。そして自分の存在が天地を創造された神の御力と恵みによっているという告白が、私たちを生きる事へと主に使えることへと押し出します。
主に仕えること、それは、悪を行うことではなく、正義に従うことであり、憎しみではなく、愛することです。ですから、それは戦いを終結させるという大きな目標と力と、真実の未来を示すまぼろしを私たちに与えるのです。
 そして、現実はそうではなくとも、神の現実において、すでにそれ以外は実現し得ないことを確信して御名を賛美することができるのです。

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