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zoom RSS 詩編091篇1-16節 聖書を学ぶ会 2017年3月2日

<<   作成日時 : 2017/03/09 05:35   >>

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1 いと高き神のもとに身を寄せて隠れ/全能の神の陰に宿る人よ

 「いと高き神」とは、なんでしょうか?それは、天地を創造された神ですから、山の神よりも高くにあり、天をも創造された方ですから、天よりも高くあるということです。すべてを超越している神です。私たちは、今日、キリスト教の影響で、神様とは全世界を創った方だとして、何の不思議も感じません。しかし、日本の神話では、古事記や日本書紀にあるように、日本の国生み神話のようなものがあります。神道の多神教的な世界観や仏教の悟りや涅槃や念仏など様々な世界観が混合して乱立しています。そして不思議なのは、この天地を創造された神という考えは、日本で、独自に生まれることはなかったということです。
 「いと高き神のもとに身を寄せて隠れ/全能の神の陰に宿る」とは、偶像を礼拝しないということです。太陽を拝んだり、仏像を拝んだりすることに安心感を見出さないということです。太陽を拝んだり、仏像を拝んだりすることは、「いと高き神、全能なる神」の御心に反することです。神の民、イスラエルは、このいと高き神、全能なる神によって、奴隷として苦しめられていたエジプトから救い出されましたが、周りの影響を受けて、偶像礼拝を取り入れるようになり、真の神の怒りによって、国が滅びてしまいます。そして、捕囚の地で悔い改めて、真の神に立ち返ったとき、国が再建されるという歴史を経験します。
 そのような救いを体験した人々の生み出した言葉、紡ぎ出した言葉が、この詩編であるということができるでしょう。

2 主に申し上げよ/「わたしの避けどころ、砦/わたしの神、依り頼む方」と。
3 神はあなたを救い出してくださる/仕掛けられた罠から、陥れる言葉から。

 主に自ら、お願いすることが大切であると言われています。つまり、神様は、私たち人一人の訴えに耳を傾けて下さる方だということです。
「わたしの避けどころ、砦/わたしの神、依り頼む方」と言うことは、私が神以外に神のようにより頼んでいるものがないかを確認してみる必要があるということです。要はお金であったり、社会的な地位であったり、その他、この世の力に、私たちは頼っていないかということは点検される必要があるということです。また、そして、重要なのは、言うということです。「わたしの避けどころ、砦、私の神、依り頼む方」と神に向かって、私たちが声に出して、心の中から言うことです。「主に申し上げよ」と言われているのですから、その勧めに従うことです。
そうすれば「神はあなたを救い出してくださる/仕掛けられた罠から、陥れる言葉から。」ということが起こると言われています。
「先生、私は、そんな事何度も口に出していってみましたが、全然、救われたことがありません。私は依然と同じようにみじめな状態です」と思う方がいるかも知れません。
あるいは、「普段から神を信じて、私は生きてきましたが、こんな不幸ばかりを体験しました。神様なんているんでしょうか?」というような言葉を想定することもできます。そしてそれは真実であるように私たちには思われます。
しかし、信仰に生きて、死後も私たちを感動させている人々の生き方に思いを寄せる時、私たちの神への疑いが虚偽であることを知ることができます。信仰に真実に生きた人々は、人生の危機や不幸のただ中でこそ「わたしの避けどころ、砦/わたしの神、依り頼む方」と神に向かって叫んだ人々であり、むしろ、この叫びのゆえに、自らに死を招くことさえ良しとされた人々だからです。そう叫んで殺されていった人々だと言ってもいいほどです。
イエス様の十字架上の最後の言葉、「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という言葉は、意味的には、「わたしの避けどころ、砦/わたしの神、依り頼む方」と同じです。ローマの兵隊たちに向かって、「お願いだから、私を降ろしてくれ」「助けてくれ」「私は何も悪いことはしていない」とか群衆や時の支配者たちに向かって叫んだのでは、イエス様はありません。
このように考えますと、私たちが、他人に自分のみじめな状態を訴えて、「神様なんているんでしょうか?私はこんな目にあっているのです。これは神様がいないということではないでしょうか?不公平ではないでしょうか?」というような類の言葉は、神を避けどころとしているのではないということが分かります。人の言葉に避けどころを求めているのです。そして、それは人の言葉に避けどころを求めても空しいということを体現しているのです。
私たちにとって、私たちの人生のみじめさ、困難、「神様がいるならなぜ、こんなことに」と、人が考え、口にするような状況は、まさにその中でこそ、私たちが神に叫び、祈ることができるかどうかが問われているのです。そして、本当に多くの信仰の先達が、そのような過酷な状況の中でこそ、神への賛美を捧げ、平安を得たのです。なぜならば、私たちの信じる神は、この世を越えた永遠なる方、全能なる神であるからです。この世の目では「すべてはもう終わってしまった。」、「手遅れだ」と思う時にも、私たちには、望みがあり、「まだなにも始まっていない」という現実を垣間見ることができるからです。

4 神は羽をもってあなたを覆い/翼の下にかばってくださる。神のまことは大盾、小盾。 5 夜、脅かすものをも/昼、飛んで来る矢をも、恐れることはない。 6 暗黒の中を行く疫病も/真昼に襲う病魔も 7 あなたの傍らに一千の人/あなたの右に一万の人が倒れるときすら/あなたを襲うことはない。 8 あなたの目が、それを眺めるのみ。神に逆らう者の受ける報いを見ているのみ。 9 あなたは主を避けどころとし/いと高き神を宿るところとした。 10 あなたには災難もふりかかることがなく/天幕には疫病も触れることがない。 11 主はあなたのために、御使いに命じて/あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。
 疫病や病魔に襲われることもありますし、倒れる一万人や千人のうちに、私たちが入っていることもあります。むしろ、「なんで、あんなに素晴らしい人が、信仰に生きてきたのに、神様はあんなむごいことをされるのだろう」と思うようなこともあります。
 その永遠の答えがイエス・キリストの十字架と復活にあります。私たちが、他の人々から見るならば、神などいないような困難の中にあって、神を賛美し、神に祈ることができるのは、私たちに本当に永遠の命が与えられていて、その永遠の命によって生かされているからです。ですから、永遠の命を生きている者の立場から、私たちは自分自身が疫病に犯され、倒れる千人、万人の内に入っていても、病に侵されず、倒れる者ではないことを確信できるのです。それが、神に生かされていることの証であり、そこにこそ、私たちの生きる意味があります。神を知らないこの世に、唯一真の神を伝えてゆく責任がそこにおいてこそ果たされているのです。それは、この世から見れば、愚かなことでしょう。そして、私たちはその愚かさを喜ぶのです。世に愚か者扱いされることを私たちは喜びます。その時も、私たちは平安で満たされ、神の慈しみと恵みを体験します。

12 彼らはあなたをその手にのせて運び/足が石に当たらないように守る。 13 あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり/獅子の子と大蛇を踏んで行く。 14 「彼はわたしを慕う者だから/彼を災いから逃れさせよう。わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。 15 彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え/苦難の襲うとき、彼と共にいて助け/彼に名誉を与えよう。 16 生涯、彼を満ち足らせ/わたしの救いを彼に見せよう。」

 昨日は、灰の水曜日で受難週に入りました。荒野の誘惑の箇所が次の日曜日には読まれます。イエス様の受難と試練を覚える時です。
 悪魔は「『彼らはあなたをその手にのせて運び/足が石に当たらないように守る。』と聖書に書いてあるから、この神殿の屋根から飛び降りてみなさい」と、イエスを試みます。イエス様は「あなたの神を試みてはならない」とも書いてあると悪魔の要求を退けます。
 「飛び降りろ」と、言っているのは悪魔です。神様が「飛び降りろ」と言っていないということです。私たちの神に対する疑いも同様ではないでしょうか?自分で考えて、「神がいるなら、助けて下さるはずだ」と勝手に考えて、行い、失敗して「神様なんかいない」と、言っていないでしょうか。神様が命じてもいないのに、自分で考えて、それを行っても、神は助けれくれません。
 神が何を私たちに命じておられるのか、静かに熱心に神に耳を傾け、御言葉を聞いただけではなくて行う者とならしめてくださいますように。

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