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zoom RSS 2017年3月12日 マタイ12章22−32節 「悪と戦うキリスト」(2013年2月24日増補)

<<   作成日時 : 2017/03/13 17:43   >>

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悪霊に取り憑かれて話すことができず、目で見ることができない障害を負った人が、イエス様によって癒され、話し出し、目が見えるようになったのを見て、人々は驚愕します。そして、「この人は、ダビデの子ではないか」と、言い出します。「ダビデの子」とは、神様が約束されたキリスト、世の救い主を意味します。それを聞いたファリサイ派の人々は、「イエスは、悪霊の頭であるベルゼブルによって悪霊を追い出しているのだ」と、言い出します。するとイエス様はそれに対して、「サタンがサタンを追い出せば、内輪もめであって、サタンの国が成り立たなくなってしまう、私がベルゼブルの名によって悪霊を追い出すのならば、あなたがたの仲間は誰の名によって追い出しているのか?」と応えられました。
たとえば、これは、日本ではあるヤクザが、覚せい剤の密売に関わっているとします。それでは、そのヤクザの組長の名で、覚せい剤の売人を逮捕したり、罰したりすることができるのかというのと同じです。ファリサイ派など、他の宗教者たちも当時、悪霊祓いをしていた訳ですが、その際、悪霊の名によって、悪霊を追い出すなどということはもちろんしていなかったのです。その嘘を突かれたイエス様は、さらに人や人の子に対する冒涜はどんなことでも赦されるが、聖霊に対する冒涜は赦されないと宣言されます。
この最後の「聖霊に対する冒涜は決して赦されない」という言葉は、非常に理解が困難です。

まず、考えてみたいのは、ファリサイ派の人々がなぜ、このようにイエス様の素晴らしい力を見てもイエス様を正しく、神様からいらした方として認識できなかったのかということです。それは、この前の部分に書かれています。イエス様は、安息日に手の萎えた人を癒されたり、弟子たちが、空腹を満たすために、道々、麦の穂を摘んで食べたことを容認されたことにあります。安息日を守ることは、十戒にも明記されていることで、神の民にとって絶対のことでした。それは、何よりも神様を大切にしているという信仰の表現であり、神様への感謝の印でした。これを守るためにイスラエルの人々は、大変な努力をしました。同様のことはキリスト教会にも受け継がれています。日曜日の礼拝を守るということは大切なことです。イエス様ご自身、安息日にはきちんと礼拝に出席されています。安息日の礼拝をおろそかにしたという記録はありませんし、おっしゃったこともありません。ファリサイ派の人々は細かい安息日の規則にこだわったので、「木を見て森を見ず」というような全体的、本質的な視点を見失っていたということはできるでしょう。なぜこうなったのか?それは、神様を見上げるのではなく、人間同士でお互いに見比べるからです。これについては、後でより詳しく説明します。
そして、私たちはファリサイ派の人々のようになってはいけないと自戒し、またファリサイ派的な考え方を批判します。しかし、大切なことは、自らの中にファリサイ派の人々と同じ思いがあることを見出し、告白することです。それが、イエス様が、私の心の中に入ってきてくださったことを示す出来事です。イエス様が、私の主ではないとき、私の心は他の人々を裁くのです。イエス様を思うとき、私たちは自分自身を振り返ります。
先日、篤志面接委員の講習会で、犯罪心理学についての講演をうかがう機会がありました。とても優秀な大学教授で、むつかしい事の本質的なことを噛み砕いて教えてくださいました。その中で、印象に残った言葉があります。「たとえば誰かが遅刻をしたとする。すると、私たちは、『あの人はなんてだらしないんだ』と、思う、しかし、自分自身が遅刻すると『電車が遅れてしまって』と思わず、その理由を言って、決して『自分がだらしなくて』とは、言わない」とおっしゃったのが、はっとしました。このような意識していなかったことに気がつくのは、私たちの魂の解放であると思います。

私はこの言葉をその後、心の中で思いめぐらせました。私たちは神を愛し、隣人を愛することを神様から命じられています。それが、私たちの人生において最も価値あることであり、目的です。「自分を愛するように、隣人を愛しなさい」と、イエス様は教えてくださいました。ということは、先の遅刻の件で言いますと、他人が遅刻したとき、「なんてだらしがない」と、遅刻という決まりによって判断しない、裁かないということです。そして、自分が遅刻した時に言い訳をするように、「なぜ遅れたのか?」と、その理由を尋ねるということ、あるいは、その理由に思いを向けるということだと考えさせられました。イエス様は、「裁くな」ということを教えてくださいましたが、この「裁くな」ということと「愛する」ということとの関連が、私はよりよく理解できるようになりました。
少年院で、いろいろとお子さんの話を聞いていると、それぞれ、当然ながら、非行に至るには原因があるということです。たとえば、学校で暴れて人に暴力をふるったりして、ものを壊したりするお子さんがいます。そうすると私たちは「そんな悪いことをしてはいけない」と、叱ってしまいますが、それには必ず背景があるのです。家庭は離婚寸前で、両親はもう自分の面倒は全然見る余裕がないとか、お母さんが昨日、家を出て行って、「ご飯は?」とか父に聞いたら、「バカヤロー、そんなもの自分でしろ!」と殴られたとか、それでむしゃくしゃして、ちょっと無視したり、目が合った人に「なんだ俺に文句があるのか?」と言って、ケンカになった。殴ったら、殴り返されて「この野郎殴ったな!」と、大げんかになってしまった。こんな場合、家のストレスが本当の原因なので、ケンカの最中は、頭の中は真っ白で、自分が殴っている相手がどんな状態なのかも分からず、手加減ができないということが多いようです。しかし、そのような子供を私たちは、「善悪の見境がつかない狂暴なワル」という烙印を押してしまいます。ですから、何か悪いことをしたら、その悪を責めるよりも、まず、その悪をなすに至った背景、感情などを聞いてあげることが大切なのです。たとえば、「今朝は飯を食べたのか?」とか、「昨日は何時に寝たのか?」、「お父さん、お母さんは元気なのか?」「なんか困ったことがあるのか?」というように、彼らがなした、悪いことを指摘して怒るのではなくて、その悪に至った背景を聞いてあげることが大切なのです。なかなか先生方も忙しいし、親は、大抵の場合、その原因そのものですから、聞いてあげることができません。しかし、彼らの社会での生活の中にもそのような教師がいて、そのように心配してくれた人のことは決して忘れていません。

また自分自身を振り返って、罪を告白するということは、決して、後悔して自分を責めるということはないということも最近思わされています。罪の告白というのは、先ほどの遅刻をめぐる自分の心の動きに目を留めることです。ところが、後悔して自責の念にとらわれるというのは、取り返しのつかない失敗を責めている自分の存在によって、自分を正当化しようとしている心の動きではないかと思わされています。あるいは外的な状況に原因を求めるのは、神を愛し、人を愛していることが私たちの心の中心ではないことを意味しています。
神を愛し、神の御名を賛美し、神に感謝を捧げることができる。それは人間の人生において最も素晴らしいこと、心が満たされることです。その意味で礼拝は私たちにとって大切なものです。
ある方がこんな独り言を教えてくださいました。
「礼拝が楽しくて仕方なくて、毎日曜日が待ち遠しくてしかたない方っておられるのでしょかねぇ?・・・・そんな教会だときっと楽しくて毎週大勢の方が来られるのでしょうねぇ。」
私はこの独り言を聞いてハッとしました。とてもいいところを突いていると思いました。
「礼拝が楽しくて仕方なくて、毎日曜日が待ち遠しくてしかたない」人になるのが、牧師も含めて、私たちの信仰が成長してゆく方向性なのです。たとえ誰も来なくても、神を礼拝することが楽しいと思える信仰が大切なのではないかと思いました。
まず牧師である私がそうならなければ、いけません。私のように日曜日が来るのが苦痛でプレッシャーになっていては、いけないと思わされたのです。そして、今日、私は、こうして、教会の皆さんに支えられて、礼拝を守ることを許されていることを神様に感謝したいと思います。
神を待ち望んで、神の律法をしっかり守ろうとしていたファリサイ派の人々が、あろうことか、待望の神の子を認めることができず、殺してしまいました。私たちも同じような人間です。ファリサイ派の人々と何ら変わりありません。今、神の子が、ここに現れたら、私たちは再び、その神の子を十字架に付けるような真似をしかねません。聖霊を冒涜する罪を犯すかもしれません。いや犯すでしょうし、犯しているでしょう。

しかし、幸いなことに、神は、私たちにイエス・キリストを信じる信仰を与えてくださいました。この神の恵みによって、私たちは赦されています。永遠の裁きを免れています。私たちに神の子を認める信仰をお与えくださり、聖霊を冒涜するのではなく、賛美し、崇め敬う信仰を神様が与えてくださいました。それは、私たちが福音を聞いたからです。自分で何かをして、到達したのではありません。全ては神の御心です。ですから、私たちは裁くのではなく、許すことへと召されています。他人を批判するのではなく、罪を告白することへと召されています。憎しみではなく、愛することへと召されています。私たちは弱く、自分でそのような召しに応えることはできません。憎むのではなく、愛そうとしても自分では愛することはできないのです。それは聖霊の力です。聖霊の力によらなければ、私たちは何も神様のためにすることはできません。ですから、聖霊を冒涜するならば、それは許される事がありません。聖霊は、私たちが神とともに生きるためには、必須のものだからです。聖霊の力なくして、私たちは神を認めることも信じることもできないのです。イエス様ご自身の謙虚さがここに表現されています。つまり、癒しの業を行っているのは神の霊である聖霊であって、私の力によって行っているのではないということが、ここに言われているのです。
神の前に謙虚に謙遜になるということ、これが礼拝の本質です。そこに礼拝の素晴らしさがあります。この世の楽しみとは全く違った性格を礼拝は持っているのです。神の前にへりくだるとき、私たちは神様から大きな限りない力をいただいて、勇気をもってこの世を生きてゆくのです。生かされている事実をこの世において確認してゆくのです。この信仰に力があるのです。あの熱心さにおいて、私たちなど全く及ばないファリサイ派の人々ですら、理解できなかったことを、神は異邦人である私たちにお許し下さったというこの大きな恵みを感謝すべきです。
 神様を礼拝するために私たちはここに集まっています。それは神様を讃えるためです。しかし、罪深い私たちは、まさにこの神様を讃える礼拝において、神様を見るのではなく、お互い人間同士で見比べて、私の方があの人よりいいとか、この人より劣っていると考えます。それは神様が主ではなくて、私が主となっているために起こる心の現象です。これが律法が細かく規定されていった根本的な原因です。
例えば、祈る時、ある人は右手を挙げて祈っている、もう一人の人は左手、私は両手を挙げて祈っている。どれが一番神様の御心にかなっているのだろうか?と、考えたりするようなことです。このような思考がそもそも成立するということは、この考えを持った人、つまり観察者が神を見ているのではなく、隣の人を見ているということです。つまり、自分自身の判断が、この思考の中心にあり、そこからこの問いは発せられているということです。この発想、思考のベースは自分自身の思考ですから、この思考が支配しているところには神の子のための場所はないのです。ですから、真の神の子、イエス・キリストは排除されなければならなくなってしまうのです。
これの典型的なパターンの一つは、「あの人は、別に何の苦労もなく生きているけれど、この人(自分)は、こんな苦労をしなければならない。神様は不公平だ」というものです。この「あの人は楽に生きている。この人は苦労している。」という考えの判断の中心にいるのは、そういっている本人そのものです。
何が楽をして生きているか、苦労して生きているかは、「神様は不公平だ」と、言っている人間そのものが勝手に事情も分からずに言っていることです。そして、聖書は、楽に生きているように見える人も見えない人も、人は必ず死ぬということであり、楽に生きたから人生の価値があるのではなく、苦労して生きたから人生損したのでもないということです。
 人が生きることの価値は、私たちの自分勝手な価値観によるのではないということであり、生きているということ、それがすでに価値のあることなのだということなのです。それが神様に感謝するということなのです。誰もが負っている神様に対する義務なのです。

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