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zoom RSS 2017年3月26日 マタイ福音書17章1−13節「主の変貌」

<<   作成日時 : 2017/03/31 10:52   >>

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さて、本日の説教の箇所であるこの山上の変貌の出来事は、歴史的な事実と認めるには根拠が薄弱であるというのがいわゆる科学的学問的定説となっています。不思議なことが起こって、つまり、モーセとエリヤの幻をみて、イエス様の姿が変貌し、「これは私の愛する子」という声が聞こえた。そしてイエス様が「今、見たことを誰にも言うな」というのは、どうも不自然、嘘っぽいというのが、信仰を通さないで、この記録を読んだ時の普通の感覚ではないかと思います。
イエスは実は、自分がキリストだとは思っていなかったのだが、十字架でイエスが殺されて後の弟子たちが、イエスの素晴らしさが忘れられなくて、心理的にイエスは、生きているという体験をし、イエスをキリストだと言い始めた。ところが、生前にイエスが自分はキリストだと言ったことがなかったので、実は秘密の内に、弟子たちは、「イエスがキリストだ」ということを聞いていたと話をでっち上げた。そのひとつが、この山上の変貌であると考えるのは容易です。つまり、イエスがキリストであるという信仰に基づいて後から創作されたもの、エピソードのようなものだと考えられています。
あるいは、これは復活伝説が創り出した第二次伝説、つまりフィクションではないかともよく言われます。
しかし、実際は、この山上でのイエス様の変貌を弟子たちが体験していなかったら、弟子たちは、イエス様について行くことはなく、主の十字架と復活の御業を伝える人々となることはなかったのです。
また、この山上の変貌の記録は、イエスをキリストと信じて従った弟子たちの信仰を非常によく説明しています。ここには、初代の弟子たちの謙遜さが表現されています。謙虚で謙遜な信仰を私たちはここに見出すことができるのです。

先週の箇所でペトロは、イエスがキリストであることを告白し、イエス様がそのことをペトロに告白させたのは父なる神様の働きであるとおっしゃいました。そして、ご自身が十字架への道をこれからゆかなければならないと、言うと、ペトロは、「そんなことがあってはならない」と、イエスを止めようとします。そのペトロをイエス様はお叱りになりました。それから6日目のことが、山上の変貌の出来事です。もし、ペトロたち、弟子たちの主だった者たちが、このイエスの山上の変貌を体験することがなかったら、決して、弟子たちは、イエスとともに生命の危険があり、自分たちの命を狙っている人々の本拠地であるエルサレムへ、イエスと一緒についてゆくなどということはしなかったはずです。
つまり、イエスに、最後まで従った十二人の弟子たちは、自分たちのイエス様への信頼とか忠誠心つまり、信仰が強かったから、従ったのではないということです。もし、彼らが、イエス様の変貌の姿を見せていただかなかったら、彼らはとうの昔に、イエスのもとを去っていたであろうということです。

イエス・キリストの十字架の死と復活の証人となる栄誉と特権を得たのは、ただ主が選んでくださったというイエス様の選びの恵みによるのだということがここに言われています。そして、イエス様の変貌を見ることに与っても、ペトロのように、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」と、口走っています。
このペトロの言葉が、否定的に他の福音書で評価されているのは、このイエス様が弟子たちの前でご自身の変貌した姿を見せたのは、彼らがこれから、十字架につけられるイエス様に従っていくモティベーションを保つためであったからです。
また神の声を聞いて非常に恐れ、伏したという弟子たちの慌てふためく姿が伝えられています。これは、後の初代教会の中心となった十二弟子たちの中でもさらに指導的役割を果たしたペトロとヤコブとヨハネの権威を揺るがすものです。このような醜態というものを弟子たちは伝えたくなかったはずです。
しかし、福音書には、そのことがしっかりと伝えられています。それどころか、このような弟子たちの醜態は、福音書を貫く主要なモチーフの一つでさえあります。これは、イエスの弟子たちが愚かであったからではありません。そうではなくて、イエス・キリストを信じて、罪の赦しに、確かに与っていたので、彼らは、自らの愚かさを伝えることができたのです。
神は私たちの知恵と知性の源です。ですから神を信じるとき、私たちは自分の愚かさを告白できるのです。神を信じないとき、私たちは自分を賢いものと思うのです。これが私たちの知性です。
ここに記録されているのは、救いの喜びです。「こんな愚かな私であるにもかかわらず、主が私を選んでくださった。だから、私は主の証人であり、主の救いに与ることを許された」という、救いの喜びが言われているのです。

山から降りてきた弟子たちは、イエスに「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねます。山上の変貌によってイエスがキリストであると弟子たちは、信じたからです。来るべきエリヤは洗礼者ヨハネであったことを弟子たちは、イエス様の言葉によって理解します。そして、キリストが洗礼者ヨハネと同じように苦難の道をたどらねばならないことを、理解したのでしょう。それにもかかわらず、主の復活を弟子たちは最初信じられませんでした。
そのような愚かな信仰薄い弟子たちに主は繰り返し、ご自身を示して下さり、信じない者ではなく、信じる者にしてくださったのです。その主イエス・キリストの忍耐と愛によって、弟子たちは、イエス・キリストをかろうじて信じられるようになったのです。

主は苦難の道を歩まれました。
私たちも正直に生きていると、損をするということがあるでしょう。誠実に規則を守って仕事をしたりしていると、余計に厳しいことを言われたり、「なんで、私ばかりが責められなければならないのか」と思うことがあります。「ずるをしている人は責められずに不公平だ」ということがあります。しかし、それは違うのです。正直に誠実に生きようとすると、批判をされたり、責められたりするのは、それは、正直に誠実に生きているからです。良心にやましいところがなければ、それは、自分が正しい道を歩いているしるしです。ですから、それは喜ぶべきことであり、恵まれたことです。悪を行うと、そのような批判や責められることがありません。それは滅びの道を歩んでいることであり、実は恐るべき、戦慄すべきことなのです。目先の得をしているように思えるかもしれませんが、愚かなことです。

謙遜な信仰に立って、私たちは日々自分の罪を告白しつつ、主が定めてくださった道を歩み続けたいと願います。

十字架に掛けられて殺され、そして三日目に復活するというメシアの秘密が、本当に神の御心であるということは、イエス様がキリストであることを告白したペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけに示されました。12弟子の中でも中心の中の中心であった弟子たちであったと考えられます。そして、その弟子たちにも、ことが成就するまで秘密にするようにイエス様は命じられました。
なぜ、そのようにされたのか、その御心は、私たちには測り難いものがあります。しかし、この山上の変貌の出来事には、一つの御言葉の成就があり、保証があります。それは「二人三人の者が、私の名によって集められるところに、私も共にいる」というイエス様の御言葉です。
ですから、主イエス・キリストの名によって集められているこの礼拝にも主は確かにいらっしゃって下さり、モーセもエリヤも共にいて下さるということです。そして、私たちは神のご栄光に今、与っているのだということです。
感謝を捧げましょう。

祈りましょう。
(2013年3月10日修正)

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