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zoom RSS 2017年4月16日 マタイ福音書28章1〜10節「キリストの復活」

<<   作成日時 : 2017/04/16 14:45   >>

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 イエス・キリストの福音とは、イエス・キリストの復活にあります。今日はイエス・キリストの復活を記念するイースター、復活祭と呼ばれる日で、キリスト教会にとって何よりも大切な祭日です。
 昨日の土曜日、街中を近くの神社の春の例大祭があるということで、雅楽の音を拡声器で流しながら、幟を立ててお神輿や太鼓を載せたトラックが巡回していました。イースターというキリスト教のお祭りは、季節ごとに行われる催事や儀式とは趣を異にします。この日、教会に集まってお祈りをすると願いが叶うとか霊験あらたかになるというものではありません。この日には、何を食べるとか、こういうことをするという習俗があるというものではありません。
 復活祭は、歴史的な事実を確認し、その事実に基づいて神に感謝し、神様のご栄光を讃えるためにあります。そして、その歴史的事実を伝えることにその目的があります。それでは、西暦何年のいつに起こったのかというと、それは確定していません。紀元30年と33年説が有力と言うことです。それはある意味当然で、西暦という暦自体がキリスト教が大きな社会的な勢力となって初めて、イエス・キリストの誕生を第一年としようとして考案されたのが525年で、長い間、暦として使われることはなく、10世紀に入ってから一部の国で使われるようになり、西欧で一般化したのが15世紀以降だからです。
 聖書では当時のユダヤの暦に従って、過ぎ越しの祭り時にイエスは十字架にかけられ、安息日の次の日に復活したとされています。ただこれも福音書間で若干の食い違いがあるということです。
 しかし、日付が不確定だから、イエス・キリストの復活が信じられないということはありませんし、それで復活の事実が歴史性を失ってしまうということではありません。日付が分からないから歴史的事実ではないとして退けられるようなものでは復活はありません。
 イエス・キリストの復活が本当に起こったというこの事実がすでに途方もない信じられない出来事だからです。そして、復活を祝う私たちにとって、重要なことは、この途方もない信じられないことが、信じられないこととして、よく分かっていないということです。
 こうしてキリスト教会は、日本にも、水戸にもあちこちにありますから、「そんなものか?」と思っています。「キリスト教?西洋の宗教でしょう。」、つまり、「私たち日本人には日本の宗教があるから、それを信じていればいい」というような考えを吹き飛ばすものです。
聖書が伝えるイエス・キリストの復活のメッセージは、今も昔もこれからも強力なインパクトをもって、人間の歴史に介入し、私たち一人一人の人生を根本から変えてしまってきた出来事であり、またそのような出来事であり続けるものです。

 イエス・キリストは、「自分を神の子である」と自称したも同然だという理由で、十字架刑というもっとも残虐な仕方の死刑で殺され、墓に収められます。それが、金曜日で、そこから数えて三日目つまり日曜日の朝に復活をします。先ほど読まれましたマタイ福音書の箇所は、そのイエスが復活した日曜日の朝の出来事を伝えています。日曜日の朝に、マグダラのマリアと他のマリアが墓に向かうのは、その前の土曜日が安息日であったため、仕事のようなことはすべて休む時と定められていたため、イエスの死体の処理など何もできなかったため、それをするために一刻も早くと彼女たちは墓へ急いだと考えられます。途中で大きな地震が起こり、横穴式の墓の蓋になっている大きな石が倒れ、その上に天使が降ってきました。その姿は稲妻のようであり、衣は雪のように白かったと伝えられています。番兵たちは、恐れおののいで呆然としています。天使は女たちに語りかけます。
「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
この知らせを受けて、女たちは、急いで弟子たちのもとへ向かう途中でイエスに出会い、イエスは、「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」と、言います。おそらく女たちに、イエス・キリストの復活が真実であることをご自身で示されたのでしょう。
このほかにもイエス様の復活を伝える話はいくつか、新約聖書の中に伝えられています。「キリスト教には、そいういう伝説があるんだ。ギリシャ神話にも、黄泉の国へ行って帰ってくる話がある。古事記にも、死んだ妻に会いに行く話がある」というようなものと同列に置かれる話ではありません。これはただの伝説ではありません。
このイエス・キリストの復活を本当に起こったこと、そして、この復活は、イエスが弟子たちに教えて下さったように、私たちにも起こることだと信じるのがキリスト教徒、クリスチャンです。
私はお世辞にも信仰深いとは言えませんが、このイエス・キリストの復活を語り伝え、教えて下さり、その信仰に生きて下さった人々に心より感謝を捧げたいと思います。それはとりもなおさず、この御業をなして下さった神様への感謝です。
なぜならば、このイエス・キリストの復活の福音によって、私の人生は、常に神様からの励ましを頂いてきたからです。そして、それは、私の心の中の闇を明らかにして照らして下さいました。
真の神の子が、十字架につけられて殺され、三日目に復活されました。私たちの信じる神様は、人間によって苦しめられて捨てられ、殺されました。しかし、それは本当に本当の神様だったということを復活は証しています。それは、私たちにとって、私たちが同じように、どんなにひどい目にあっても、神様は共にいて下さるということです。私の心の中には、何か不幸に遭った人を見ると、「自業自得だ。」とか、「自分でなくてよかった」とか、「ざまぁ見ろ」というような思いがあること、このこと自体もイエス様を信じて生きるようになってから、この暗い私の心の闇がよりよく分かるようになりました。それまでは、そんな自分の暗い心に気が付かない状態でした。救いを経験することなく、人を裁いていたからです。私の目には自業自得であったり、「ざまぁみろ」と思えるような人とも神様は共にいて下さるかたであり、どんな苦難や困難や病や事故、悲劇もそれらは神の裁きではなく、その苦難や悲劇は、神様が私を見放しているのではないことをイエス・キリストの十字架は宣言しています。そして復活は、そのような私たちの人生の真っ暗闇の中にも希望があり、生きる意味があり、人を愛することへと私たちを呼び覚まし、力を与えて下さいます。

イエス様が十字架につけられたとき、他に二人の強盗殺人の重罪人が処刑されました。ですから、私たちが本当にどうしようもない殺されるべき罪を犯しても、イエス・キリストを信じるならば、神様によって赦されることが明らかにされています。それは、「そんな極悪人でも許されるのならば、何をしてもいいじゃないか」と言うことを意味するのではなく、神様の赦しの力がいかに絶大なものであるかを示しています。それを本来、喜ぶべきであるのに、私たちは神様に対して注文を付け始める身の程知らずの高慢を明らかにします。ですから、イエス・キリストは、私たちの罪を赦すため、私たちのために十字架につけられたということを明らかにします。

イエス様の復活は、私たちの日常生活にとって、どんな意味があるでしょうか?それは、私がどんなに自分では望まない状況の中にあって、そこから脱出することもできず、這い上がることもできなくても、神様は私を見捨てている訳ではないという事実を証明するものです。そして、私たち一人ひとりが生まれる前から神様によって覚えられており、神様のご計画の内に生かされてきたこと、生かされていること、神様の大切な一人であることを宣言しています。
イエス様の復活は、人間にはなしえない神の御業です。人間が誇るどんな技術革新も学問の発達もはるかに及ばないという現実を明らかにしています。どんな学者も王も死を免れる者はいません。
復活は、本当に起こりました。私たちのキリスト教会は、このイエス・キリストの復活の証人です。イエス・キリストは復活されたことは事実であり、真実であるという信仰によってキリスト教会は存在しています。
人間は死んでしまえば、終わりではありません。しかし、それは名誉や名を遺すことではありません。人に覚えられるのではなくて、神様に覚えられることが大切なのです。他人から「素晴らしい人だ」と認められることではなく、神様から「わたしの愛する子よ」と呼ばれることが価値あることなのです。それがイエス・キリストの復活を信じるということです。私たちが復活を信じることは、神様の御業が私たちのためになされたことを認めることであり、それは同時にだからこそ、神様が私たち一人一人を「わたしの愛する子よ」と呼んでくださっていることです。
 イエス・キリストの十字架と復活の御業は、私たちに、この世の命よりも大切なものがあることを明らかにしています。神様の御心に従う時、私たちは死んでも復活に与ることができるからです。
それは私たち一人一人の人生には目的があることを明らかにしています。それは、神を礼拝し、神に栄光を帰し、神の御名を崇めることです。私たちは、神を礼拝するために働き、神の栄光と神の御名を崇めるために生きているのです。
働いて金を儲け、自分が豊かになり、自分が崇められるために私たちは神の力を借りようとしているのではありません。
イエス・キリストの十字架と復活の御業によって、私たちは既に神の子とされているのです。この上、望むものなどなにもありません。
私たちの望みは、すべての人が、この唯一真の神を信じ、御名を崇め、神様にご栄光を帰し、神の子とされて永遠の命を受けることです。なぜならば、神様がそのように望まれて、御子イエス・キリストを十字架につけて殺され、私たちの罪の贖いとして下さり、私たち人間に永遠の命への道を開いて下さったからです。神は私たちを愛しておられるからです。
この神の深い愛を知ったとき、私たちの人生は真の喜びで満たされ、神と人に仕える者へと変えられるのです。
私たちはですから、神と人に仕える者へと変えられた者であり、変えられつつある者です。

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