水戸中央教会 牧師室

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zoom RSS 詩編095篇 聖書を学ぶ会 2017年5月17日 

<<   作成日時 : 2017/05/18 12:40   >>

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1 主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。

 「主に向かって喜び歌おう」とは、詩編の本来の機能です。主は、私たちが、彼に向かって喜び歌うことができる方です。神は救いの岩であり、私たちを確かに助け出し、救い出して下さる方です。喜び歌おう、喜びの叫びをあげようと、詩は、主を信じる人々を招いています。それは礼拝への招きであり、勧めです。

2 御前に進み、感謝をささげ/楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。
 神の前に私たちは進むことができます。そしてそれは神様に感謝をするためです。そして、音楽を奏で、音楽に合わせて喜びの叫びをあげることがふさわしい方が、私たちの信じる神様です。私たちは、何を感謝し、何を喜び、なぜ喜びの叫びをあげるのでしょうか。その答えは、次の節に記されています。

3 主は大いなる神/すべての神を超えて大いなる王。
 主は大いなる神であるから、そのことを喜び歌い、喜びの叫びをあげ、御前に感謝をささげるのです。私の今の生活が、素晴らしいから、経済的に豊かだから、そこそこの地位にあるから感謝をして、喜び歌い、喜びの叫びをあげるのではありません。「すべての神を超えて大いなる王」であるから、喜び歌い、喜びの叫びをあげ、感謝をするのです。この喜びの歌、喜びの叫び、感謝は、私が経済的に破たんし追い詰められ、地位を追われ、みじめな状態にあるからと言って、妨げられるものではありません。どんな苦難も悲劇も関係ないのです。この歌は、あのアウシュビッツの強制収容所で、殺されてしまうようなときにさえも、私たちはこの詩を口にすることができ、喜び、喜びの叫びをあげ、感謝をささげることができるほどです。

4 深い地の底も御手の内にあり/山々の頂も主のもの。

「深い地の底も御手の内にあり」というのですから、私たちの人生のどん底にも神様はともにいてくださり、その私たちのどん底も神様の御手の内にあるということです。「山々の頂も主のもの」なのですから、私たちがどんなに高い地位に上り詰めようが、豊かな生活をしようが、それもまた主の御業の内にあり、私たちは、私たち自身を誇るのではなく、神様を誇るのです。

5 海も主のもの、それを造られたのは主。陸もまた、御手によって形づくられた。
 海は広大です。人間の小ささがこれほど明らかになるところはないでしょう。そして、海を変えることなど思いもつかない場所です。海は人が住めないところです。海の上に直接、横たわって眠ることはできません。大地の上に人は生かされていますが、その私たちが生きている地も神様によって造られたのです。私たちが生きていることができるのは、すべて神の御業の中です。このことが喜びの歌の理由であり、喜びの叫びをあげる理由です。そして、この喜びの歌を歌い、喜びの叫びをあげることができるか否かがまさに私たちに問われているのです。この喜びを喜び、喜び叫ぶことができるかが、私たちの人生において決定的に重要なことであり、絶対的な意味を持っていることです。私たちの人生は、この神に向かって喜びの歌を歌い、喜びの叫びをあげるならば、それほど幸いな人生はありません。それどころか、それが人間の人生、本当の人間の人生の目的なのです。
 主の御言葉に聞き、主に従って生き、主に従い続けるとき、私たちの心の中に生まれてくるのが、この喜びの歌であり、喜びの叫びであり、感謝なのです。主に従い、奉仕するがために疲労困憊し、窮地に追い込まれ、力尽き果てたように思うときにこそ、この賛美と喜びと感謝が私たちの心の中に湧いてくるのです。人に利用され、何の意味も私の人生にはなかったのではないかと思えるようなときにも、何の得にもならなかったと思えるようなときにも、いやまさにそのような時にこそ、主の御業、天地を創造された主を見上げ、喜びの歌を歌うことは大きな慰めであり、励ましであり、喜びなのです。
 なぜならば、主が私たちを造られたからです。

6 わたしたちを造られた方/主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。

 私は神によって創造されたものだという信仰は、私たちを解放します。このことは決定的絶対的な意味を私たちの人生に与えます。わかりますか。これは決定的に重要なことなのです。つまり、そこでは、私の思いや私の為すことによって、私の存在の意味が増すとか減少するとかいうことではないのです。大会社の社長だから偉いとか、著名で有能な学者だから素晴らしいとか、私はあの人より広い家に住んでいるからというような事柄で満たされ、喜んだり悲しんだりする世界からの解放なのです。私のなすことではなくて、神様のなすことの一部だと自分自身を理解し、信じることです。信じるというのは、本当はそうでないのに、現実はそうでないのに、そうであるかのように思い込むということではなくて、神の言葉に人生をかけるということです。理解するだけではなくて、現実の人生、生活の中で、行うということを意味しています。
「主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。」という礼拝を、私たちが神によって創造されたという事実認識はもたらします。皆さんは、この礼拝において、「あなたは天皇だった本当に偉い人だ」と神様はおっしゃるでしょうか?あるいは王様だったからといって、「自分は特別だ」と、言えると考えるでしょうか?神様に対して、「私は、王ですから、あなたも私の言うことを聞きなさい」とか、「私を誰だと思っている」とか言えると皆さんは考えるでしょうか?神様の前で、「私は偉い学者だ、王だ。こんな庶民と一緒にするとは、神はなんと不公平な方なのだろう。私がどんなことをしたのか知らないのか?」とすべてを創造された方の前で言うことができるでしょうか?考えることができるでしょうか?
万有引力を発見したニュートンは、生涯教会学校の先生として奉仕されたそうですが、「私は広い砂浜の小さな砂粒一つを見つけたにすぎない」と言ったことは有名なことです。天地を創造された神への信仰は、私たちに本当のことを悟らせる謙遜を与えてくださいます。そして、私たちの、どんな小さな奉仕であってもそれが、神の御言葉に従うものであるならば、私たちに生きていることの意味を確信させ、人間として尊厳と誇りをあたえてくださるのです。それは本当に喜びなのです。人の目には偉大であるような人に謙遜である喜びを与え、人の目にはつまらないことであるような人に誇りを与えるのです。その謙遜と誇りは、ともに神の偉大さへの賛美と感謝と喜びから生まれてくるのです。

7 主はわたしたちの神、わたしたちは主の民/主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。

 王も皇帝も学者も資産家も、貧しい人も地位も学問も教養もない人もすべて神の御手によって創造され、一つの主の民であり、主に養われる群れ、御手の内にある羊です。羊の群れはどれがどれか普通の人の目には区別がつきません。どれも羊です。 そして羊は、飼い主から離れてしまうと生きてゆけないのだそうです。

8 「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように/心を頑にしてはならない。
メリバもマサも同じ場所です。出エジプト記17章にあります。メリバは「争い」であり、マサは「試み」です。神様によって、奴隷として苦しめられていたエジプトを脱出したイスラエルの民は、荒野を旅しますが、レフィデムという地に宿営した時、そこに水がなかったので、喉が渇いた民が、モーセに、「私たちも家畜も殺す気か!」とものすごい剣幕で文句を言ったのです。そこで、神は、モーセに与えた杖で岩を打ちなさい、そうすれば水が湧き出て飲むことができると指示しました。そして、そのとおりになります。

9 あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した。

 「荒野で水がないというのは大変なことだ。水が出て、民は飲むことができてよかった。」ぐらいにしか私たちは考えませんが、それは、私たちが、ここで非難されているイスラエルの民と同じように、神に逆らい、神を試みるものだからです。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。私も子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」と、民は喉が渇いて仕方がないので、訴えたとあります。「それは当然だろう」と、私たちは思ってしまいますが、彼らは葦の海の奇跡を見ているのです。食べ物のないところで、天からマンナという食べ物が与えられ、肉が食べたいと言えば、ウズラの大群がやってきて、肉も与えられたのです。ですから、喉が渇いた時、神様に「水をください」と祈り、懇願すればよかったのです。その意味でなんでも困ったことがあったら神様に祈るというのは、正しい信仰の在り方です。現世利益的だとかあまり批判する必要はありません。要は謙遜に神様にひれ伏して祈るということです。

10 四十年の間、わたしはその世代をいとい/心の迷う民と呼んだ。彼らはわたしの道を知ろうとしなかった。

「お前のおかげで、こんな目に遭っている。お前のせいだ!」と、民は言ったわけです。あの苦難から救い出していただき、その全能なる力を目の前にしながら、神様にお願いするならば、水も与えてくださるというようには彼らは考えなかったのです。そして、そのようなことは、私たちも同じであるということです。神様の示してくださる道を行こうとは思っていないのです。それは自分の都合だけ、自分の利益だけを考え、わがままで自分勝手なのです。

11 わたしは怒り/彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った。」

 神様が怒ったのは当然です。ですから、このメリバとマサの地で神に逆らい、神を試みた世代が死に絶えるまで、イスラエルの民は約束の地に入ることができませんでした。
 さて、メリバやマサのことにこの詩編が触れているということは、この詩編は苦難の中にある人々に語り掛けているということです。生活が成り立たなくなっているとか、人生が行き詰っているとか、絶望のどん底にあるとか、そのような人々に語り掛けているということです。「神様が私をこの世に生かしているからこんなひどい目にあっている。私をこんなひどい目にあわすために苦しめるために神は私を造ったのか。」と文句を言いたいような状態にある人々にこの詩は向けられているのです。

困難と苦難に直面して、絶体絶命の危機に直面して、詩人は訴えます。

主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。

この「今日」、私たちが直面している危機は、必ず神様によって乗り越えられるものであり、乗り越えられてきた事実があるからです。またたとえ乗り越えられなくても、この困難と苦難の中で、主に向かって祈り求めることは、この苦難と困難に対処する正しい信仰的態度なのです。困難と苦難の中で、主に向かって喜び歌うことが、私たちの人間の崇高さと素晴らしさと、そもそも私たちが神によって生かされていることの賛美にほかならないからです。それは、苦難と危機と困難に対する勝利です。苦難と危機と困難には目的があり、それは、私たちが神に祈るためにあるのです。そして、人生の本当の危機と困難は、私たちが神に祈らないこと、神様から離れていることにあるのです。
死を考える時、人は神について考えます。それは、冷静になって、この世の過ぎ去るものには意味がないことを悟るからです。
ある知り合いが、重篤な病で入院しました。彼は古銭を集めるのが趣味だったのですが、その療養生活の中で、「これも死んだらもってゆけないなぁ」とつくづく考えたそうです。本当に大切なことに、死は目を開かせてくださいます。それはいかに神によって生かされているこの人生が大切なことであり、この人生において神を賛美し、ほめ歌わない人生がありえないことかを教えてくれるのです。

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