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zoom RSS 2017年5月28日 ルカ福音書24章44〜53節「イエスの昇天」

<<   作成日時 : 2017/05/28 22:36   >>

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44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」 45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、 46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、 48 あなたがたはこれらのことの証人となる。 49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」 50 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。 51 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。 52 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、 53 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

 イエス・キリストは、十字架に架けられて殺され、三日目に復活され、弟子たちに40日間に亘ってご自身の生きておられることを示されました。イエス・キリストの名を信じる人々は、その罪の赦しを得させる悔い改めが、世界中の人々に宣べ伝えられることとなりました。父が約束されたものとは聖霊のことで、これは次週に祝われる聖霊降臨日、ペンテコステのことを指しています。
 イエス・キリストを信じて、そのイエス・キリストが世を裁く終わりの日が来ることを信じて、私たちクリスチャンはこの世を生きています。このことが、私たちの人生において何よりも大切なことであると信じています。
 イエス・キリストは、復活されましたが、その復活の姿を示されたのは、彼の弟子たちだけでした。イエスを死に追いやった律法学者やファリサイ派の人々、ローマの総督ポンテオ・ピラトやヘロデ王やユダヤの祭司長たちは、復活の主に出会うことはありませんでした。イエス様は、彼らにご自身の復活の姿を示しませんでした。このことに私たちは疑いを抱きます。「本当に復活が起きたのならば、誰でも復活の主に会うことができたほうがよかったはずだ。その方がみなイエス様が神の子であることを本当に知ることができて、イエス様を信じることができたはずだ。それでこそ悔い改めが起こったはずだ」と私たちは思います。そして、そのように起こらなかったということは、何か弟子たちが見た幻影だったのではないかと疑うのです。つまり、イエス様の素晴らしさを知っていた弟子たちが、「イエス様は死んでいない。きっとどこかで生きていらっしゃる」とか、イエス様への強い思いから幻影を見たのではないかと疑る根拠となっています。
 しかし、信じる私たちにとっては、そうではありません。そして、それは神を信じるということは、そういうことなのです。イエス様は、イエス様を殺した敵にご自身の姿を現しませんでした。「どうだ、お前たち、私は生きているぞ。神の罰を受けよ」ということをなさいませんでした。つまり、私たちは、復讐をする必要はないということです。「イエス様を殺した敵の前に復活の姿をイエス様が見せれば、相手も悔い改めたのではないか」とか、「復活が事実だったならば、敵にもその姿を現すことができたはずだ」と考えることは、つまり、私たちの心の中に、自分を苦しめた相手を叩きのめして、留飲を下げたいという思いがあるからです。それを私たちは、「敵も悔い改めただろう」などと、神様のことを考えているように思いますが、それは、嘘であって、神様がどのように思っていらっしゃるかではなくて、自分がどう思うのか、他人は、自分に対してどう思っているかが、私たちの関心事となっているから起こってくる問いであり、考えなのです。
 大切なことは、イエス・キリストを信じて従うということです。イエス様ご自身にとって大切なことは、神様の御心を行うこと自分を信じて従っている弟子たちのことでした。「どうだ。私はすごいだろう。おそれいったか?」などと、自分を馬鹿にし、苦しめた相手に対してご自身が誰であるかを見せませんでした。水戸黄門のように、悪代官を前に、「ここにおわすは天下の副将軍なるぞ、ひかえよ!」と、なると、私たちは「よかった。よかった」と思います。それは、本当に心の中で思っているのは、自分がよい人として人々から認められるということなのではないでしょうか?それは、神に認められることよりも、人に認められることが大事だと思っているということです。それは、今、自分が、この世で認められることが問題となっていることを意味します。
 しかし、私たちの関心は永遠の未来にあります。私たちの望みは来るべき神の国にあります。この世において、報いを受けることを私たちは望みません。この世の報いは過ぎ去るもので、空しいものだと信じているからであり、それが現実だからです。
 確かにローマ総督であり、イエスを死刑に追いやって責任を取らなかったポンテオ・ピラトにイエス様は復活の姿を現されて、ピラトを平伏させませんでしたが、300年の時を過ぎて、ローマ帝国全体がキリスト教会の前に平伏し、キリスト教はローマの国教となりました。
 エジプトに売られたヨセフは、エジプトで大臣となりますが、自分をエジプトに売った兄弟たちを責めたりはしませんでした。ヨセフは、イスラエルの家すべてを救うのです。
 ヘロデ王は、イエス様が天に昇られてしばらくしてから、自らの神への高慢の言葉によって、滅ぼされます。イエス様自らが手を下したのではなく、自ら滅びたのです。
 復活されて、天の昇られる方にとって、この地上における恨みやつらみは関係がないということです。そしてまた、同じように、私たちも復活に与り、天の御国に入れられるのですから、この世で、敵対したり、嫌な思いをさせられたりした人々に対して仕返しをする必要は全くありません。仕返しなどということで、色々と考えたり思い悩んだりする余裕はないはずなのですが、どうでしょう?実は、私たちの心の中は、神様の御心を思うよりも、相手への仕返しをしたい思いで満ち溢れています。
 だから、私たちにとって、復活はいつまでたっても、心の中で真実の力ある驚くべき神の御業となって、心から賛美されることがありません。その復活の希望に生きることができません。ですから、私たちは、私たちに敵対し、嫌な思いをさせる人々に感謝すべきなのです。なぜならば、彼らによって、私たちは、私たちの心の中にあるこの世に執着している自分の赤裸々な姿を知ることができるからです。本当の敵は、私の心の中にいることに気が付かされるからです。忙しさの中で、次から次へと起こってくる出来事に対処しているだけでは、ダメなのです。この心の中の敵に気が付くとき、私たちは祈りが本当に大切であり、神の前に静まることがいかに大切であるかを痛切に感じることができます。
 そして、こうして礼拝に集まり、心静かに祈るということは、欠かせないことになるのです。心を神様に向けるということは本当に大切なことです。イエス・キリストの復活は、この世において最も大切な命は、神へと向かうのだということを示しています。決して、この地上に君臨して、私たちが威張り腐るためにあるのではありません。

イエス様は天に昇られました。弟子たちの見ている前で天に昇られたと聖書は証言しています。イエス様が天の神様のもとに帰られたということは、イエス様がどこかへ行ってしまわれたということではなく、イエス様は天の神様と同じように、私たちの傍らに時間を越え、空間を越えて常にいて下さっているということです。つまりイエス様は神様であるということです。

 今日の交読詩編93篇には次のようにありました。
1 主こそ王。威厳を衣とし/力を衣とし、身に帯びられる。世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない。 2 御座はいにしえより固く据えられ/あなたはとこしえの昔からいます。 3 主よ、潮はあげる、潮は声をあげる。潮は打ち寄せる響きをあげる。 4 大水のとどろく声よりも力強く/海に砕け散る波。さらに力強く、高くいます主。 5 主よ、あなたの定めは確かであり/あなたの神殿に尊厳はふさわしい。日の続く限り。

「主こそ王」と、言われているということは、天に昇られたイエス様こそ王であるということです。神として私たちに臨んでおられるイエス様が力を衣とし、身に帯びておられるのです。その力は、今のこの世にも及んでいますが、しかし、イエス様によって、その力は私たちの永遠の未来にも及んでいます。私たちが永遠の御国へと入ることができる救いの御業を、神の御力が可能としてくださいました。永遠の命の力が神ではありません。神を崇めることにおいて、私たちに永遠の命が与えられるのです。この時、世界は固く据えられるのです。私たちの心の中に永遠の御国が据えられます。それが救いなのです。魂の救いをイエス様を信じる信仰は与えて下さり、その救いは決して揺らぐことがありません。
御座はいにしえより固く据えられ、あなたはとこしえの昔からいますと、あるようにイエス・キリストが天に昇られたということは、マリヤの子供として生まれた時からイエス様が存在したのではなくて、永遠の昔からイエス様はいらして、王座にあったということを昇天の出来事は私たちに知らしめます。それは、理解しがたいことですが、私たちの心の現象としては、無意味に思われたすべてのことが、イエス・キリストを信じる信仰によってすべて意味あるものとなり光り輝くということとして体験することができます。永遠の昔から、私たちはイエス・キリストを信じ、従う者として定められていたということは、私たちが、どのような身分や地位や社会的環境に置かれていても、喜び、御名を賛美する事が出来るすばらしいことです。私たちはただ、イエス・キリストを信じる者とされたということによってのみ、生きているのです。それだけが価値があることで、他のことはどうでもいいことなのです。
 このイエス・キリストの救いの御業は、私たちの心に大波のように押し寄せています。その大波のはるか彼方に主はおられます。それはイエス様が遠く隔たったところにいらっしゃるということではありません。そうではなくて、私たちが真に心から礼拝すべきは主イエス・キリストその方であるということです。そして、本当に私たちの人生に影響を与えている方、救い主はイエス様以外にはないということです。
 その救いの御業は確かであり、私たちの生涯を通じて最後まで賛美されるべきは主イエス・キリストであると言われているのです
 「主イエス・キリストの皆によって祈ります」という私たちの祈りの最後の定型句は主の昇天によって保証されているのです。

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