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zoom RSS 詩編099篇 聖書を学ぶ会 2017年6月8日

<<   作成日時 : 2017/06/11 13:01   >>

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1 主こそ王。諸国の民よ、おののけ。主はケルビムの上に御座を置かれる。地よ、震えよ。 2 主はシオンにいまし、大いなる方。すべての民の上に高くいます。 3 御名の大いなること、畏るべきことを告白せよ。主は聖なる方。 4 力強い王、裁きを愛し、公平を固く定め/ヤコブに対する裁きと恵みの御業を/御自ら、成し遂げられる。 5 我らの神、主をあがめよ。その足台に向かってひれ伏せ。主は聖なる方。 6 主の祭司からはモーセとアロンが/御名を呼ぶ者からはサムエルが、主を呼ぶと/主は彼らに答えられた。 7 神は雲の柱から語りかけ/彼らに掟と定めを賜り/彼らはそれを守った。 8 我らの神、主よ、あなたは彼らに答えられた。あなたは彼らを赦す神/彼らの咎には報いる神であった。 9 我らの神、主をあがめよ。その聖なる山に向かってひれ伏せ。我らの神、主は聖なる方。


1 主こそ王。諸国の民よ、おののけ。主はケルビムの上に御座を置かれる。地よ、震えよ。

 「主こそ、王」と、王自身が言い、民が告白している訳です。このことは、私たち日本の社会では、その意味が明確になります。なぜならば、私たち日本人の意識の中には、象徴とはなっていても、天皇が日本の最高の支配者であって、それ以上の王はいないからです。このことは、私たちの意識に微妙ですが、決定的な影響を及ぼしています。「断じて行えば、鬼神をもこれを避ける」という言葉などにもありますように、神というのは、絶対的に人間が従うべきものではありません。主こそ王という聖書の言葉は、神の力が具体的に、この世の私たちに及んでいることであり、「主こそ王」と告白する者は、神の支配下に生きており、その力に守られていることを意味しています。
 「諸国の民よ、おののけ」と、言われています。日本の神道のような神々は、世界中の民族に存在します。キリスト教化されて、過去のものとなってしまった地域も多いですが、それでもなお、民族それぞれに、自分たちの神々というものがあるものです。このように「諸国の民よ、おののけ」というような言葉が、あったら、それはこの主を王とする国の民は外国を侵略しようとしているように思われます。他民族を侵略する根拠となるような言葉です。たとえば、日本はかつて、いわゆる第二次世界大戦を大東亜戦争と名付け、周辺諸国を侵略し、占領地に日本の神社を立てて、その地の人々に参拝を強制しました。
 しかし、この聖書の民は、神から定められた地以外への侵略と拡張を自国の存在目的とすることは、基本的にありませんでした。
 それは、「主はケルビムの上に御座を置かれる。」と言われているように、主なる神の支配がすでに、この全地に及んでおり、イスラエルが他国を侵略してこの「王なる神」の支配領域を広げる必要がないからです。

2 主はシオンにいまし、大いなる方。すべての民の上に高くいます。

 シオンとはイスラエル民族の都であるエルサレムの別名です。神がシオンにいるということが、すでにイスラエル民族が他国を侵略して支配する必要がない根拠となっています。「シオンにいまし、すべての民の上に高くいます」とある通りです。ユダヤ民族のアイデンティティは、ですから、この神を信じていること、この神が王であることにあります。この王なる神を信じ仕えることが、彼らが特別な民とされていることであり、自ら他国を侵略して、自分たちの強さや栄光を示す必要はないのです。彼らのなすべきことは、この偉大なる神を王として従っていること、この神を信じて礼拝すべきこと、つまりその支配を示す具体的な徴である律法を守ることにあります。それによって、イスラエル民族は、どこにあっても全ての民の上にある神に仕える民として、自身の独自性と正当性を担保しているのです。たとえ迫害され、馬鹿にされるとしても、彼らは、神の民としてあることに自身のアイデンティティがあります。馬鹿にされ、迫害されるからと言って、あるいは他民族の支配下にあるからと言って、主なる神は、すべての民族の王ではなくなってしまっている訳ではありません。そのような時とは、主なる神の力がなくなってしまったということではなくて、問われているのはイスラエル民族の信仰なのです。神様の力が強い時にだけ従い、神様の力が弱くなったら、神を捨ててしまうということではありません。それはご利益信仰の多神教の神と同じです。ご利益がなければ、他の神に行くというものではないのです。

3 御名の大いなること、畏るべきことを告白せよ。主は聖なる方。

 これを告白するということは、困難の中で、神への信仰を告白するということです。主は聖なる方というのはつまり、この方は、私たちが置かれている状況とは全く無関係に、常に私たちを愛し、私たちにとっては神が私たちを見捨てているように思えるような時にも私たちを守り導いて下さっている方ということです。

4 力強い王、裁きを愛し、公平を固く定め/ヤコブに対する裁きと恵みの御業を/御自ら、成し遂げられる。

 恵みの御業を、御自ら成し遂げられるということは、つまり、私たち人間には、絶望的で、できるわけがないとか、もっと正確にいうと考えもつかないような方法と事柄によって、神様は私たちを救い出し、守って下さるということです。そして、そこには、裁きとあるように、私たちがどんなにこの世の力において強力で、富や地位にも恵まれて、「我が世の春」と思っていても、あっという間に転落してしまうということです。そして、その転落が神への信仰をおろそかにして思いあがっていたならば、本当にみじめなことであり、立ち上がることはできません。ただ悔い改めの道を神様はそれでも残しておいてくださっており、私たちに苦難を通じて立ち返ることを喜んで下さる方です。神はその民を愛して下さっているのです。

5 我らの神、主をあがめよ。その足台に向かってひれ伏せ。主は聖なる方。

 この愛の神を崇めることが、私たちの生きる意味です。謙遜な心をもって、神を礼拝し、仕えることが、「その足台に向かってひれ伏す」ということです。「主は聖なる方」とは、先のところでは、他の国々が神をおろそかにしようがしまいが、関係なく、主であり、王であり、神であり、世界を支配されている方であったように、それは、神を信じる民が、神を持ち上げたら、より偉くなったり、神をおろそかにしたら、神の価値が低くなるようなこととは関係なく、神であり主であり、王であるということであり、その地位は揺らぐことがありません。それは言うも愚かなことでしょう。また、私たちが神を侮り、高慢になって、裁きに遭い、この世の人生の中で自ら招いた神の裁きの中でも、神に立ち返るならば、その悔い改めを神は喜ばれるという意味で、神は変わらず聖なる方なのです。

6 主の祭司からはモーセとアロンが/御名を呼ぶ者からはサムエルが、主を呼ぶと/主は彼らに答えられた。

 神の力は、この現実の世に示されました。モーセとアロンによって導かれた出エジプトの出来事がそれです。私たちは、不信仰なので「なんだ、そんな昔に一回だけ起こったことを後生大事に信じ続けているのか?バカバカしい。」と考えたりしますが、そうではありません。この出エジプトの出来事が引き合いに出されるのは、これが、歴史の中で起こったかもしれないたった一回の伝説だからではなくて、ここに始まりがあり、ここに私たちのアイデンティティがあるということです。そして、出エジプトのような信仰体験は、私たちの内に今もなお起こり続けているということなのです。そして、その出エジプトの奇跡が、私たち一人一人の信仰生活の中に現実に起こり続けているから、伝えられているのです。
 大切なことは、私たちがモーセのように、アロンのように、またサムエルのように、謙遜に神に仕えるということなのです。

7 神は雲の柱から語りかけ/彼らに掟と定めを賜り/彼らはそれを守った。

 このように、私たちの信仰は歴史的な出来事に結び付いています。これは昔語りではないかと思われるかも知れません。しかし、私たちの昔語りとは、全然違った価値観がここにあることに気が付くでしょうか?
私たちの昔語りは、「私の先祖にはこういう偉い人がいる」とか、「町で一番大きな家だった」とか、過去の一族の富や栄光が私たちのアイデンティティを形成していることが多いのです。天皇家の歴史が記されている古事記や日本書紀も、「天皇家は日本の始まりからこの国の支配者であった」というように過去の地位の高さを語っていてそれを自己アイデンティティとしている点では同じです。
 しかし、ここでは、神が語られたということと、そして、その神の言葉に民が従ったということが言われているのです。つまり、神への服従が、その価値観の基本です。そして、この時代、民が神の言葉に従って荒野をさまよった時代は、決してこの世の目で見るならば、豊かな素晴らしい時代では全然ないということです。それは、実はこの世の目で見るならば、自分の出生は卑しく、さまよう乞食のようなものであって、差別され、馬鹿にされこそされ、決して誇ることなどできないような状態であったのです。ですから、この荒野をさまよっていた頃のイスラエルに対して、意地悪をした民族があった訳です。
 しかし、この詩編が評価しているのは、そのイスラエルの民が、命からがら逃げだし、貧しく荒野をさまよっていた時代を高く評価し、自らのアイデンティティをそこに見出しています。それは、この世の富や栄光を求めていないということです。この世の富や自分の栄光ではなくて、神に従うこと、神に頼って生きるしかない弱さを大切にしているということであり、それこそが、私たちの人生において求めるものであることが言われています。
 なぜならば、次の節にありますように:

8 我らの神、主よ、あなたは彼らに答えられた。あなたは彼らを赦す神/彼らの咎には報いる神であった。

 であったからです。神に呼ばわり、神が答えられ、神の赦しを体験し、咎の報いを受け、そのように生きることが人間が本当に生きているということであり、そこにこそ、人生の素晴らしさがあるのです。目覚めよ、立ち返れと私たちは自分自身に向かって、また世に向かって叫ばなければなりません。叫ぶ思いを抑えることができないのです。

9 我らの神、主をあがめよ。その聖なる山に向かってひれ伏せ。我らの神、主は聖なる方。

 その叫びは神に向かって、その叫びは世に向かって、主を崇めよ、聖なる山に向かってひれ伏せと叫んでいます。主を崇めよ、何度も何度も聞かされ、何度も何度も私たちは告白し、歌い、覚えておりますが、にもかかわらず、お金を崇めたり、自分自身を崇めさせようとしたりしている自分自身を見出しています。しかし、だから無意味なのではありません。そうではなくて、まさにそのような偽善に気が付くということが私たちの人生を素晴らしいものに光り輝かせているのです。

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