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zoom RSS 詩38編 聖書を学ぶ会 2017年6月29日 

<<   作成日時 : 2017/06/29 12:36   >>

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1 【賛歌。ダビデの詩。記念。】 神への賛美であり、ダビデの詩であり、記念と訳されています。

2 主よ、怒ってわたしを責めないでください。憤って懲らしめないでください。

「主よ」と、詩人は呼びかけています。彼は神の怒りの内にいると理解しています。神の憤りと懲らしめの内にいると自分の状況を理解しています。賛美として相応しくないと私たちは考えがちですが、神への賛美は、常に自分が何か素晴らしいことを体験して、その素晴らしさを告白することが賛美なのではないと言われているのではないでしょうか?恋愛の歌にも愛は永遠にというタイプの歌もあれば、失恋の歌もあります。神と人間との間にはつまり、深い愛の結びつきがあるということです。それは男女の愛をはるかに超えたものであるとキリスト教会は伝統的に告白してきました。
そして、この詩がダビデの詩とされていることも、その意味で大きな意味があります。旧約聖書においてダビデは突出した信仰者であり、ダビデの末からキリストが生まれるという神の約束があり、それがイエス・キリストとなって現実のものとなりました。信仰者のお手本であり、信仰者を神がどのように取り扱われるのかが、ダビデに現されています。

3 あなたの矢はわたしを射抜き/御手はわたしを押さえつけています。 4 わたしの肉にはまともなところもありません/あなたが激しく憤られたからです。骨にも安らぎがありません/わたしが過ちを犯したからです。 5 わたしの罪悪は頭を越えるほどになり/耐え難い重荷となっています。 6 負わされた傷は膿んで悪臭を放ちます/わたしが愚かな行いをしたからです。 7 わたしは身を屈め、深くうなだれ/一日中、嘆きつつ歩きます。 8 腰はただれに覆われています。わたしの肉にはまともなところもありません。 9 もう立てないほど打ち砕かれ/心は呻き、うなり声をあげるだけです。

 詩人は神によって苦しめられています。それは詩人自身の過ちと罪悪の結果であると告白されています。神の矢が、詩人を射抜き、神の手が詩人を押さえつけています。彼の全身が病でおおわれています。その病のひどさは、神の怒りの激しさであると告白され、それは骨にも及んでいます。骨は、体の一番奥の部分です。体の芯まで神の怒りが及んでいます。その怒りの原因は詩人自身の過ちであると自ら告白しています。
 ここに私たちは、この詩人の信仰の深さと神との結びつきの強さを理解することができます。なぜならば、私たちは病気になって初めて、神様のもとにお願いに行き、「助けて下さい」と祈り始めるからです。そして、「なぜ、私がこんな目に遭わなければならないのか?神様は不公平だ」と訴えるのが普通だからです。私たちは、神を信じていないので、何か自分にこの世的な問題が起こったときに、その問題が自分ではどうにも解決ができないときに神のもとにやってきます。
 詩人は、神の前に罪を犯したと告白しています。そしてその罰のゆえに苦しんでいると認識しています。部下であるウリヤの妻、バテシバと姦通をしたこととダビデが人口調査をして神が怒られたことの二つくらいが、旧約聖書に記録されているダビデの罪ですが、どれもそれによってダビデ自身が疫病で苦しんだということは伝えられていません。民に疫病が降りかかったと言われていますから、民の苦しみを王として自分の身に引き替えて告白しているということも言えるでしょうが、論拠が弱いように私には思えます。
 とにかく、これはダビデの詩とされており、この詩人は重篤な病に苦しめられ、それは神への罪のためだと認識されているということです。
 現実的には、私たちには罪があります。本当にその罪は深く、神から罰を下されるのは当然です。私たちは皆、死ななければなりません。ですから、この詩は現実の私たちの姿を表現しているものであると言って差し支えありません。

10 わたしの主よ、わたしの願いはすべて御前にあり/嘆きもあなたには隠されていません。

ここに大きな転換点、あるいは集約点があります。私たちの願いも嘆きも全ては神のもとに明らかにされているということです。すべてを神様はご存じであり、神様にお委ねしているという信仰、信頼がここに表現されています。
 私たちは、このようなとき、「神様は不公平だ」と人に訴えるのではないでしょうか?そして、その神を信じる人を批判して、そのことによって自分が生きていてもいいのだというメッセージを自分自身でねつ造するのです。その信仰はあくまで相対的な人間関係の中にあり、神様との結びつきがありません。

11 心は動転し、力はわたしを見捨て/目の光もまた、去りました。 12 疫病にかかったわたしを/愛する者も友も避けて立ち/わたしに近い者も、遠く離れて立ちます。

 ここにおいて素晴らしいのは、「私を愛する者も友も、私に近い者も遠く離れて立っている」ということではないでしょうか。このような信仰の境地を私たちは味わったことがあるでしょうか?その素晴らしさは、それを神に訴えているということです。私たちがひとたび困難にぶち当たると、友や近い者に、神様の不公平を訴えたり、親や近しい者に不満をぶちまけて、「お前のせいでこうなった」というのが普通です。しかし、詩人は、自らの神の前の罪を認識し、神からの罰として苦しんでいます。ここに実は人間の希望があるのです。

13 わたしの命をねらう者は罠を仕掛けます。わたしに災いを望む者は/欺こう、破滅させよう、と決めて/一日中それを口にしています。 14 わたしの耳は聞こえないかのように/聞こうとしません。口は話せないかのように、開こうとしません。 15 わたしは聞くことのできない者/口に抗議する力もない者となりました。 16 主よ、わたしはなお、あなたを待ち望みます。わたしの主よ、わたしの神よ/御自身でわたしに答えてください。 17 わたしは願いました/「わたしの足がよろめくことのないように/彼らがそれを喜んで/尊大にふるまうことがないように」と。 18 わたしは今や、倒れそうになっています。苦痛を与えるものが常にわたしの前にあり 19 わたしは自分の罪悪を言い表そうとして/犯した過ちのゆえに苦悩しています。 20 わたしの敵は強大になり/わたしを憎む者らは偽りを重ね 21 善意に悪意をもってこたえます。わたしは彼らの幸いを願うのに/彼らは敵対するのです。 22 主よ、わたしを見捨てないでください。わたしの神よ、遠く離れないでください。 23 わたしの救い、わたしの主よ/すぐにわたしを助けてください。


 敵は、詩人が苦しみの中にあることを喜んでいます。神によって苦しめられている詩人の苦境に乗じて、敵は強大になり、善意は悪意によって裏切られています。敵に対して幸いを願うのに彼らは敵対します。

そのようなことがあれば、私たちは敵や近しい人々であっても縁を切ってしまうでしょう。「神などいない」と言ってはばからないでしょう。しかし、詩人は神に祈ります。

22 主よ、わたしを見捨てないでください。わたしの神よ、遠く離れないでください。 23 わたしの救い、わたしの主よ/すぐにわたしを助けてください。

 この祈りは、無意味な祈りではないことが、イエス・キリストによって証明されています。神に望みをかけ続けることができるか否かが問われているのです。
そして私たちがこの世にあって問われているのは、神に望みをかけ続けたということが素晴らしいことで、評価すべきことなのです。
それは叶うのであって、かなわないから無意味だということはあり得ないのが信仰です。なぜならなばそれは既にイエス・キリストにおいて証明されているからです。


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