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zoom RSS 2017年7月16日 Tテモテ2章1〜8節 「祈り」

<<   作成日時 : 2017/07/19 16:18   >>

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2017年7月16日 Tテモテ2章1〜8節「祈り」

 1 そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。 2 王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。 3 これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。 4 神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。 5 神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。 6 この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。 7 わたしは、その証しのために宣教者また使徒として、すなわち異邦人に信仰と真理を説く教師として任命されたのです。わたしは真実を語っており、偽りは言っていません。 8 だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ることです。

 「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい」とあります。私たちの執り成しの祈りは、大抵、自分の家族やまた自分が関わっている人々に限られています。この聖書の箇所を知らなかった訳ではないのですが、私は、ほとんど日本の天皇や総理や政府のために祈ってきませんでした。なにか少し大げさな気がしていたのです。それはまた、かつて日本基督教団が、天皇に仕えることを、唯一真の神に仕えることよりも優先した過去の歴史的間違いに対する一つの判断から私は、これまで、国のための祈りをしてこなかったのではないかとも反省させられました。
 このテモテへの手紙が書かれた時代、そしてその後も「王やすべての高官」は、当時のクリスチャンにとって敵対的な人々でした。おそらく1〜2世紀ごろにこの手紙は書かれたと思われます。4世紀に入って、キリスト教が公認され、その後ローマ帝国の宗教になるまでは、何度も迫害されています。ローマ皇帝からキリスト教を攻撃する勅令が出ています。そのような時代の中で、テモテへの手紙を書いた発信人であるパウロは、「王やすべての高官」のために祈ることを手紙を受け取る人々に求めています。そして、それが「神の御前に喜ばれることだ」と言われています。考えてみますと、これは単なる国家にすり寄ることではないと改めて思われます。それは卑屈になることではなく、私たちの思いを越えた、神の御心に立つことであって、それは克服です。敵対する為政者への怒りを克服することです。
 今年の私のドイツ語のクラスにSさんという企業で技術開発部門で長く働かれて、定年後、牧師を志している方です。この方は、奥さんと知り合われてから、教会に行くようになってクリスチャンになった方です。会社で、その当時人間関係で悩んでいた。どうしても許せない人が会社にいて、口もききたくないような状態であったときに、奥さんの送り迎えでいくつもりだった教会の礼拝に参加された。その時、マタイの山上の説教と言われるところについて話されていて、敵を赦すとかイエス様が十字架上で敵を赦されたという話を聞いて、「そんな世界があるのか?イエス・キリストの状況に比べたら、自分のことなど小さなことだ」と思われたそうです。そして、そのどうしても許せない人を赦してみようと試されたそうです。それは、何かものすごいことではなくて、ちょっとしたこと、挨拶をするとか、普通に仕事の話をするとかいうことだったそうです。そして、そうしてみると、「そんなに、自分が思っているほどでもない」というようなことが見えてきて、その状況を克服することができた。それで、「これは、真実だ」と確信されて、5カ月後くらいに洗礼を受けられたということです。
 「日本には、「宗教?」と聞いただけで拒否反応があるけれども、私のような人間関係で悩んでいる人は大勢いる。そんな人たちの立場や考えをよく理解して福音を伝えたい。彼らは、こういう福音の世界を全然知らないのです。」と、おっしゃっていました。
 私たちが個人の祈りの中においても為政者のために私たちの国のために祈るということは、大切なことであると聖書に書かれている訳ですから、私たちもこれを実践してゆきたいと願います。私たちが願うことではなく、聖書が、それが神の願いであると言っているから私たちはこれに従うのです。

祈りについては、昨日、テレビで、デューラーとその友達についてのエピソードが放送されていました。ご覧になった方も多いでしょう。また例話集などにも取り上げられている話ですので、以前からご存じだったかたもいらっしゃると思います。こんなお話でした。

http://mugikiri.exblog.jp/16811250/より以下引用)
いまから500年ほど前、ドイツのニュールンベルグの町にデューラーとハンスという若者がいました。
2人とも貧しい子たくさんの貧しい家に生まれ、
小さな時から画家になりたいという夢を持っていました。
2人は版画を彫る親方の元で見習いとして働いていましたが、毎日忙しいだけ
で絵の勉強ができません。

思いきってそこをやめて絵の勉強に専念したいと思いましたが、絵の具やキャンバスを買うお金もままならないほど貧しく、働かずに勉強できるほど余裕はありませんでした。
ある時、ハンスがデューラーに1つのことを提案しました。
「このままでは2人とも画家になる夢を捨てなくてはいけない。でも、僕にいい考えがある。

 2人が一緒に勉強はできないので、1人ずつ交代で勉強しよう。
 1人が働いてもう1人のためにお金を稼いで助けるんだ。
 
 そして1人の勉強が終わったら今度は、別の1人が勉強できるから、 もう1人は働いてそれを助けるのだ。」
どちらが先に勉強するのか、2人は譲り合いました。
「デューラー、君が先に勉強してほしい。君の方が僕より絵がうまいから、
 きっと早く勉強が済むと思う。」
ハンスの言葉に感謝してデューラーは、イタリアのベネチアへ絵の勉強に行きました。ハンスはお金がたくさん稼げる鉄工所に勤めることになりました。
デューラーは「1日でも早く勉強を終えてハンスと代わりたい」とハンスのことを思い寝る時間も惜しんで絵の勉強をしました。
一方残ったハンスはデューラーのために早朝から深夜まで重いハンマーを振り上げ、今にも倒れそうになるまで働きお金を送りました。1年、2年と年月は過ぎていきましたが、デューラーの勉強は終わりません。勉強すればするほど深く勉強したくなるからです。
ハンスは「自分がよいと思うまでしっかり勉強するように」との手紙を書き、デューラーにお金を送り続けました。
数年後ようやくデューラーは、ベネチアでも高い評判を受けるようになったので、故郷に戻ることにしました。

「よし今度はハンスの番だ」と急いで、デューラーはニュールンベルクの町へ帰りました。

2人は再会を手を取り合って喜びました。
ところがデューラーはハンスの手を握りしめたまま呆然としました。そして、泣きました。
なんとハンスの両手は長い間の力仕事でごつごつになり、絵筆がもてない手に変わってしまっていたのでした。

「僕のためにこんな手になってしまって」と言って、デューラーはただ頭を垂れるばかりでした。自分の成功が友達の犠牲の上に成り立っていた。彼の夢を奪い、僕の夢が叶った。
その罪悪感に襲われる日々を過ごしていたデューラーは、「何か僕に出来ることはないだろうか」、「少しでも彼に償いをしたい」という気持ちになり、もう一度、ハンスの家を訪ねました。

ドアを小さくノックしましたが、応答はありません。でも、確かに人がいる気配がします。小さな声も部屋の中から聞こえきます。

デューラーは恐る恐るドアを開け、部屋に入りました。するとハンスが静かに祈りを捧げている姿が目に入りました。ハンスは歪んでしまった手を合わせ、一心に祈っていたのです。

「デューラーは私のことで傷つき、苦しんでいます。 自分を責めています。神さま、どうかデューラーがこれ以上苦しむことがありませんように。
そして、私が果たせなかった夢も、彼が叶えてくれますように。あなたのお守りと祝福が、いつもデューラーと共にありますように」

デューラーはその言葉を聞いて心打たれました。
デューラーの成功を妬み恨んでいるに違いないと思っていたハンスが、妬み恨むところか、自分のことより、デューラーのことを一生懸命祈ってくれていたのです。ハンスの祈りを静かに聞いていたデューラーは、祈りが終わった後、彼に懇願しました。

「お願いだ。君の手を描かせてくれ。君のこの手で僕は生かされたんだ。君のこの手の祈りで僕は生かされているんだ!」

こうして、1508年、友情と感謝の心がこもった「祈りの手」が生まれました。
(引用終わり)

 ちょっと嘘くさいところがある話ですが、それは、それとしておいてもいいのではないかと思います。

ただ、私たちとしては、このデューラーの祈りの手に、彼らの友情を見るばかりではなく、それを越えて、このようなエピソードを可能ならしめた方がいることに思いを寄せることができます。
 それはイエス・キリストが捕らえられて十字架につけられる前に、ゲッセマネの園で、弟子たちのために、またこの世のために祈られた祈りの手であり、その祈りそのものです。
 私たちが祈るということ、それは、イエス・キリストの十字架に与るということではないでしょうか?祈りのためにあわされた手の平に、私たちは主イエスが苦しまれた十字架の釘を思い描くべきなのではないでしょうか?それが私たちにとっての祈りではないでしょうか?

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