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zoom RSS 2017年7月23日 マタイ福音書7章15〜29節 「生活の刷新」

<<   作成日時 : 2017/07/23 12:35   >>

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15 「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。 16 あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。 17 すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。 18 良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。 19 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 20 このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」
21 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。 22 かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。 23 そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

 これらの言葉は、まずイエス・キリストにおいて現実のものとなり、真実であることが証明されています。イエス様は、奇跡によって病人を癒し、死人をもよみがえらせました。しかもそれは、ご自分が、「私は、奇跡を行った」とご自分でおっしゃったのではなく、イエス様の御業を目撃した、弟子たちによって伝えられています。イエス様ご自身は、「決して人に言ってはいけない」ともおっしゃっています。イエス様が悪いことをなさったということは、敵側にすら伝えられていません。ただ、ご自身を神の子だと言ったと同然だというようなことが、敵のイエス様に対する批判点でした。あるいは安息日に、病人を癒すというよいことをしたということが安息日規定を破ったということで批判されています。イエス様は、「アッバ、父よ」と呼んで、奇跡の業を行うだけでなく、神様の御心を行われました。それはご自身の命を犠牲にして十字架にかかられ、全ての人々の贖いとなることでした。私たちは、何か人々からすごいと思われることをすることが、神様の御心を行っていることだと誤解しがちです。
 イエス様は、不治の病の人々を癒されたとき、癒された人々に、「あなたの信仰があなたを救ったのだ」と、おっしゃっていました。つまり、奇跡の御業は、イエス様が神の子である証明であるかもしれませんが、それは、決して神様の御心を行っていることではないということが明確にされています。罪を赦す権威もイエス様には与えられていました。しかし、その権威の行使が、すなわち神様の御心を行うことではないということが、イエス様の十字架と復活の御業によって示されています。
 神の御名のために屈辱をも受けること、それが神様の御心を行うことです。敵を赦し、愛すること、キリストの御言葉に従うことが、神様の御心を行うことです。
 しかし、私たちはちょっと他の兄弟姉妹より優れた能力や業をすると、それが神様の御心を行っていることだと勘違いします。異言が話せるとか、癒しの御業をおこなって、癌の人を祈りによって助けることができたとか、自分が祈りによって癒されたとかいうことが起こると、私は、神の御心を行っている、他のそうでない人よりも偉い立派なクリスチャンだと思い込みます。しかし、それは単に信仰によって救われたということであって、また神の恵みの力が、その人を通して働いたということであって、神様の御心を行うということではないのです。信仰によって救われるのは事実であり、最も核心的なことです。しかし、それは単なる自分の癒しとか、他人の癒しとか、この世の私たちの問題の解決ではなくて、神が私たちに負わせて下さった十字架があり、その私たちの十字架の道があるということです。そして、この道は確かに細い道であり、見出す者が少ない道です。なぜならば、私たちは信仰によって、この世の私が高められ、人々から称賛される道を選択してしまうからです。信仰によって、自分の願いが叶うように、孤独が解消されるように願っているからです。そこには神の御心を問う姿勢は皆無です。それどころか、そこにおいては、神の存在が疑われているのです。「神様がいるなら、どうして私はこんな目に遭わなければならないのでしょうか?」と思うことは、「神がいないから、私はこんな目にあっているのだ。」ということで決着がつくのですが、そうはしないわけです。それはなんとか自分の願いを叶えたいという思いがそうさせているわけです。
 「神様がいるから、私は敢えてこの損と思える道を選択する」「神様がいらっしゃるから、この孤独の道を選択する」というのが本来の信仰なのです。

 広く知られているエピソードがあります。
アメリカ合衆国の南北戦争の時、アブラハム・リンカーンが、大臣たちと早朝祈祷朝食会を持ちました。リンカーンは、毎週教会へ行くという人ではなかったが、深い信仰の人であったそうです。一人の大臣が、ある点について言いました。「大統領閣下、神が私たちの側にいて下さるように祈りましょう」。リンカーンの答えは、彼のその深い信仰を示すものでした。「いや諸君、私たちが神の側にあることを祈ろう」。
 リンカーンは、それらの大臣たちに、宗教は、私たちが望むことをするために神を獲得する道具ではなくて、神が望むことをなすことであり、そのために私たちがあることに、私たち自身の心を開く招きであるということを示唆した訳です。
Source: this is a widely distributed anecdote found on the internet, including citation in serious studies. I have been unable to confirm its historicity
https://storiesforpreaching.com/category/sermonillustrations/obedience/

24 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。 25 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。 26 わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。 27 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」 28 イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。 29 彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。

 この御言葉もまたイエス様のご生涯によってその真実が証明されています。
イエス・キリストは、十字架によって殺されましたが、死んで復活して天に昇られたからです。ここで襲ってくる嵐の究極のものは、死です。死によって私たちは完全に破壊されてしまいます。倒れ方がひどいどころか、跡形も残りません。この世の命のはかなさを、砂の上に建てた家は表現しています。その死をイエス様は、乗り越え克服されました。それは、イエス様が神様の御心に従ったからです。神様は永遠なる方です。そしてその御心に従うということは、私たちが永遠そのものに従うということです。私たちは永遠を生きるので、私たちもまたイエス様と同じようにそしてイエス様が約束して下さったとおりに永遠に生きるのです。
 それは、私の人生に生きる意味が与えられたということです。つまり、それはぼーっとしていればいいという状況から私たちを解放します。それは、スポーツの大会に参加することに譬えられています。疲れるでしょうし、ストレスもあります。しかし、それは目的に向かって走ることであり、目的があるという生きがいを私たちの人生に与えます。

 ある日、マッチが蝋燭にいいました。「私には君に火をつける任務をあたえられました」。蝋燭はびっくりして言いました。「冗談じゃない。そんなことは止めてくれ、私が燃えてしまったら、私の一生は終わってしまう。誰も私の美しさをほめなくなってしまう」。
 マッチは尋ねます。「でもあんたは、一生、まず生きることなく、冷たく、固いままでいたいのかい?」
「でも燃やされるのは、痛いし、私の力がなくなってしまう」と、蝋燭は、おどおどと不安げにささやきました。「それは本当だ」とマッチは応えます。「しかし、それは私たちがこの世に召された神秘だよ。私たちは、光であるために、召し出されたのだ。私ができることは、ほんのわずかのことだ。私が君に火をつけなければ、私は、私の人生の意味を台無しにしてしまう。私は、火をつけるためにある。君は蝋燭だ。君は他の人々を照らし、暖かさを与える。君が痛みや苦しみ、労することはすべて光に変わる。君が自分自身を消耗するとき、君は失われてしまうんじゃない。他の人々が君の光を伝えるんだ。ただ君がその役割をはたさないとき、君は死んでしまうんだよ。」
 すると蝋燭は芯をぴんと立てて、希望に満ちていいました。
「それじゃあ、君にお願いするよ。私に火をつけてくれ。」

http://www.predigt-eichendorf.de/indexHauptmenueTexteboerseKanzel.htm
Zündholz und Kerze (作者不明)

 主イエス・キリストに従うということは、多くの涙と労苦があります。孤立の中に追い込まれることもあります。しかし、その涙と労苦と孤立は、永遠の未来の希望につながっているのです。
ヘブライ人への手紙/ 13章 14節は、教えています。
「わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです。」

 御言葉に従うところに希望があります。イエス・キリストと共にあるところに未来があります。私たちの今を変えてゆく力がイエス様にあります。イエス・キリストは神であり、私たちの主です。私の思いではなく、神様の思いに私たちが生きることができますように神様の助けと恵みを感謝しましょう。

先ほどのローソクとマッチの譬えは、私たちに人生の目的があることを明らかにしています。私たちの火とはなんでしょうか?それは愛することにあります。人の本来の生きる目的は愛することにあるのです。「神は愛である」と聖書は言っています。そして私たちもいたるところで、神を信じない人々でさえ、「神は愛である」ということを認めます。ですから、愛することが私たち人間の生きる目的です。なぜならば、私たち人間は神の姿に似せて創造されているからです。
その意味において、愛することにおいて、私たちは、まことに神の子なのです。


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