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zoom RSS 2013年8月18日 ローマ8章19〜25節 「忍耐」

<<   作成日時 : 2013/08/19 23:37   >>

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18 現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。 19 被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。 20 被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。 21 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。 22 被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。 23 被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。 24 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。 25 わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。

 信仰にある喜びとは、未来についての喜びです。現在、私がそこそこの地位を保ち、そこそこに生きているということに私たちは生きがいを見出し、喜びますが、それは、この世の滅び行く喜びであって、キリストを信じることによって与えられる喜びではありません。また、キリスト教信仰によって、この世的には失敗と自分で思っている人生を、この世的に立て直そうとする試みは、意味がありません。私たちの喜びは未来にあります。それはイエス・キリストです。黙示録が示すように、この世は、滅び、終わります。人は皆苦しみの内に死んでゆきます。どんなに幸福そうに見えた人生、素晴らしいように思われた人生も何の意味もなかったことが明らかになる未来です。この絶望的未来を私たちは、開かれた信仰の目をもってはっきりと見る、いや信じるのです。この神の裁きと絶滅と滅亡こそが現実であり、永遠の真実であることを信仰は、私たちに伝えてくれます。この信仰に立って、私たちは生きるのです。それは虚無的な生き方ではありません。最終的なこの世の滅亡こそが、私たちの人生を意味あるものに劇的に変化させます。この信仰を終末信仰といいます。

 この世は、とどのつまり滅び、私たちが意味あるもの価値あるものであるかのように思っていたものはなんの意味もなかったことが明らかになります。そして、この滅亡から私たちを救うのがイエス・キリストその方です。
「私の人生は、あの時、あんなことが起こったから、間違ってしまった。あれさえなければなぁ…。」、「あの人のおかげで、私の人生はむちゃくちゃになってしまった。」、あるいは、「あの時、こうしていれば…」という後悔が何の意味もないことを、終末信仰は明らかにします。なぜならば、「あの時、あんなことが起こらなくても…」、「あんなひどい人に出会わなくても…」、「あの時、こうしていても…」あるいは「あの時、こうしていなくても…」、私の人生も彼も彼女も誰も彼も、みんな滅ぼされて、無になってしまうということをこの世の終末は明らかにしているからです。そして、全ての絶望の闇の中で、輝き、輝き続けているのは、イエス・キリストその方だけだからです。

 神が私たちに信仰によって、明らかにしてくださる、絶望とこの世の滅亡を知るとき、私たちはもはや言い訳をしなくなります。「どうせ、自分なんか…」とか、「今更、もう遅すぎる…」とか、「悪いのは私ではない…」という言い訳から、私たちをイエス・キリストは解放します。この世の終わりを知って生きるとき、私でもできることがあるからであり、まだ時間はあるのであり、悪いのは私であり、変わらなければならないのは、私自身の誰でもないことを知るからです。そして、聖書の言葉の一つ一つが輝きだし、それがいかにありがたい言葉であるかを感じることができるように世の終わりを信じる信仰は私たちを変えてくださいます。世の終わりが、見えない限り、聖書の言葉は、輝きだしません。世の終わりを信じるということは、この世が永遠ではないということを認めることです。「永遠」という言葉は、私たちの価値観と結びついています。終わらないもの永遠なものに価値があると私たちは思っています。

かつてある野球選手が「巨人軍は永遠に不滅です」とか言いました。そんなことはあるわけがありません。でも、だれもおかしいとは思わないのです。しかし、永遠に不滅であることは、ないでしょう。

聖書において、世の終わりが預言されているということは、この世は永遠ではないことが、宣言されていることを意味しています。それは、この世に価値をおいてはならないことが言われているのです。イエス・キリストの死と復活と昇天の出来事が、この世の終わりを示しています。死んで復活されたただお一人の方、この方に私たちの希望はあります。私たちの希望は、ただこのイエス・キリストにのみあります。究極のところ、私たちは救われているのです。
どんなに私たちが今、孤独で孤立していたとしても、この神様の救いの御業は、私たちにとって無意味になってしまうことはありません。むしろ、私たちの孤独と孤立は、私たちを神様へと近づけます。私たちが孤独と孤立を感じて、どうしようもないと思うならば、人となられた神、イエス様は、どれほどの孤独と孤立に生きたかを仰ぎ見ることができます。もっとも愛した弟子たちに裏切られ、殺されることになります。しかし、主は、その仕打ちを受け入れて、十字架にかけられて殺されました。そして、人々を赦されました。それに引き換え私たちはどうでしょうか。職場や親族、家族に裏切られたということはあるでしょう。しかし、その仕打ちについて、私が全く身に覚えがないということはまずありません。そして、そんなに沢山のいいことを相手にしている訳でもないのです。そんなに愛したわけでもないのに、相手を悪し様に言っているあるいは相手が悪いと思っていることがほとんどです。

十字架の苦しみをイエス様は受け入れられました。私たちが、「神の愛を感じない」、「信仰なんて、何のいみがあるのか。私の状況はなんにも変わらないではないか!」と思うことがあるでしょう。「こんなに惨めで、ひとりぼっちだ」と思う時があるでしょう。しかし、確実なのは、そのような不満を私たちが心に思うとき、私たちは十字架についていないということです。十字架につけられて、人々から罵りの声を浴びているような状況に私たちは決していません。食事も取ることができず、飢えているという状態でもありません。生活は、普通にできていて、ただ社会から切り離されているという状態は、一見、大変贅沢のように思える悩みですが、非常に深刻な悩みです。このような悩みは、現代日本において、そう珍しいものではなく、豊かになった日本の文明病ともいうかたちで、表沙汰にはあまりされていませんが、非常に多くの人々がこの悩みを持っています。

結構昔から有名なメキシコの漁師のこんな小話があります。ネットで最近、たまたま見つけたので、参考までに引用します。
http://mylifeyourlife.net/2013/02/the-mexican-fisherman/
アメリカ人の投資家がメキシコの小さな漁村の埠頭についたとき、小さなボートに一人の漁師が乗っていた。
ボートの中には数匹のキハダマグロが釣られていた。
そのアメリカ人はメキシコ人に魚の品質を褒めて、釣り上げるのにどれくらい時間がかかったのか尋ねた。

メキシコ人は答えた。
「ほんの少しの間さ」

「何故、もう少し続けてもっと魚を釣らないのかい?」

「これだけあれば、家族が食べるのには十分だ。」

「でも、君は残った時間に何をするんだい?」

メキシコの漁師は答えた。
「朝はゆっくり目を覚まし、少し釣りをして、子供たちと遊び、妻のマリアと昼寝し、夕方には村を散策し、ワインを味わい、アミーゴ(仲間)とギターを弾くのさ。それで人生は一杯さ。」

アメリカ人は小馬鹿にし、
「私はハーバード大のMBAを取得しててね、きっと君を助けることが出来ると思うよ。」

「君は、もっと釣りに時間を割いて、その収益で大きなボートを買うんだ。大きなボートでまた釣りをして、その収益で今度はボートを何台も買うんだ。次第に、君は漁船の一団を率いるようになるだろう。そして釣った魚を仲介者に売る代わりに、製造業者に直接売るんだ。次第に、君は自分の缶詰工場を始めるようになるだろう。君は生産・配給量をコントロールするようになる。この沿岸の小さな漁村を離れてメキシコシティに移る必要が出てくる。それからロスアンゼルスへ引っ越し、次第にニューヨークへ移り、君はこれまで拡大してきた君の企業を運営するんだ。」

メキシコの漁師は尋ねた。「でも、一体どれくらい時間がかかるんだ?」

それに対して、アメリカ人は答えた。「15年から20年だろうな。」

「で、それからどうなるんだ?」メキシコ人は尋ねた。

アメリカ人は笑って
「時に合えば、君は株式公開をし、君の会社の株を売って、大金持ちになるのさ、億万長者にね。」

「億万長者?…で、それからどうなる?」

アメリカ人は言った。
「それから君は引退して、小さな沿岸の漁村に引っ越し、朝はゆっくり目覚め、少しだけ釣りをして、子供たちと遊び、妻と昼寝し、夕方には村を散策し、ワインを味わい、アミーゴとギターを弾くのさ………」

‐作者不明‐

衣食住は足りているけれど、自分の人生の意味を見失い、他の人との人間関係が断絶してしまっている人々が、日本では増えています。それが自殺や孤独死という社会現象となっています。このアメリカ人投資家のような考えが、私たちの社会を占領し、私たちの心までも乗っ取ってしまっているために、私たちは今、私が既に手にしている幸福、生きているということに対する感謝をすることができなくなっています。幸福というのは、何か功なり名をあげることだと思い込んでいるのです。生きているということは、それだけで祝う価値がある素晴らしい神様の贈りものであることを忘れてしまっているのです。
この現象は、アダムとエバがエデンの園で犯した罪と基本的に同一です。自分たちが、生かされているだけでは、満足できなかったのです。そして、生かしてくださっている神様との約束を破ってしまったのです。

生きているということは、それだけで、感謝と賛美に満たされた出来事です。しかし、そのような賛美と感謝を私たちはすることができません。「ただ生きているだけでは、私は虫けらと同じで何の意味もない」というささやきが私たちの心の中にあるからです。それは悪魔の囁きです。それが悪魔の囁きである証拠は、同時に私たちは、自分が認められ、人を支配し、仕えさせることを望んでいるからです。神によって生かされているだけでは意味がないと私たちは思っているのです。ですから、何も起こらないのです。なぜならば、神によって生かされているだけでは意味がないという考えは、もはや神様のために何かをするという前提が消滅しているため、必然的に、この世的な成功をしなければならないという考えになっています。ところが、このようなこの世的な成功をする手段と機会が奪われた結果として現在の状態にあるため、この世的な成功は不可能です。すると「私は生きている意味がない」という考えを強化してしまうのです。

「私が生きる意味を見出すために、この世的な成功の機会を与えてください。」というのではありません。この立場に立つ限り、神様の救いの御手を、自ら振り払ってしまいます。すべてを失ってヤコブが荒野に石の枕で寝た時もそうでしたが、「すべてを失ってもまだ私は生きている。神様によって生かされている。」という出発点に彼は立ったのです。そして、支配する機会ではなく、仕えることを彼は学んだのです。神様によって生かされているのだから、神様のために何かお返しをしようという思いが彼の人生の大転換をもたらしたのです。ですから、あの時、彼は、これから自分に与えられるものの十分の一を捧げものとして神様に捧げますという祈りをしたのです。命を与えてくださったこと、これだけでもう十分すぎるほど、十分なことなのです。これ以上何かを得ようということは、悪魔の囁きです。与えられている命に感謝して、神様の御用のために生きること。これが人間の幸福です。与えられている命に感謝せず、自分のために生きようとするとき、私たちの人生は意味を失います。

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